2014年9月14日日曜日


先週の説教要旨 「 信仰と魔術 」使徒言行録19章11節~20節 

19節に、信仰に入った人たちが自分が持っていた魔術の本を燃やしたことが書かれている。これはエフェソという当時、文化の最先端を行く町で起こった出来事である。焼かれた魔術の本の値段、銀貨5万枚ほどであったと言う。今日の額に換算すると、数億円の額になる。それほど魔術が盛んだったのである。調べてみると、ここでいう魔術師とは、占い、まじない、霊媒(死者の声を取り次ぐようなこと)を指しているらしい。このことは、現代の日本にも当てはまることであって、日本は世界中でも科学の最先端に位置している。だが、魔術の類はすたれているかと言うと、そうではない。本屋に行けば、占いの本やスピリチュアル何とかという類の本が山積みになっている。テレビをつければ、天気予報と並んで、今日の運勢などと言ったコーナーが当たり前のように設けられている。迷信的と思われるような占い、まじないの類が科学の発達とは関係なしに、人間の心の中にある種の求めとして存在し続けているのである。なぜ、占いを求める心が人々の心から消え去らないのであろうか。自分の生活は、自分以外の何かの別の力の影響を強く受けていることを知っているからであろう。自分の力だけではどうにもならない、いや、自分の力の締める割合というのは、自分の人生においてはそれほど大きくはなくて、むしろ、周りからの力に強く影響され、自分の人生は形作られている。そして、しばしば、その周りからの影響というのは悪い影響なのである。自分が一生懸命努力して、頑張って、コツコツと努力を重ねていても、外からの力がドンと加われば、一瞬のうちに、今までの努力が水の泡と化してしまう・・・。人はそういうものを「 運命 」とか「 偶然 」という言葉で言い表す。運命、偶然・・・何か得体の知れない、不気味な力が私に働きかけており、占いとうのはそういう運命に逆らわないように今日を生きるにはどうしたらいいかを示す、言わば「 魔よけの信仰 」なのである。

 しかし信仰に入ったエフェソの人たちは、自分たちの持っていた魔術の本を焼き捨てた。もう魔術の本を必要としなくなったからである。なぜなら、信仰を持つということは、神がこの世界の創造者、そして支配者であることを知ることだからである。ひとりの人間の命をつかんでいるのは、得体の知れない運命、不気味な偶然の力などではなく、皆さんひとりひとりの命をこの地上に誕生することをお許しになられた神が、その命をつかんでおられるのだと知ること、それが信仰。この世界は、神がその独り子を送ってくださった世界。神の御手が差し伸べられている世界。運命という得体の知れない不気味な法則、偶然という気まぐれな力にとらえられているのではない。神の愛の御手が差し伸べられている世界に、私たちは生きている!

「 身を横たえて眠り、私はまた目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても決して恐れません 」(詩編第3編6節、7節)。自分は夜になったら、身を横たえて眠り、そして朝になったら目覚める。神様が支えていてくださるからだ。どんなにたくさんの敵に、自分が包囲されていても決して恐れないと詩人は言う。確かにこの詩のように、人はいろいろなものに包囲されている。あまり好ましくないものに包囲されていると言ってよいかも知れない。人々の悪意や様々な策略、災難・・・しかし私たちがどんな力や悪意に包囲されていたとしても、最終的に私たちの命をつかんでおられるのは父なる神なのである。私たちはそこにある敵が見えて、そこにあるそれ以上のものが見えなくなるために、夜、眠れなくなる。そこにある嫌なものばかりが目に映って、その向こうにあるものが見えないために、いつもイライラ、ぶつぶつしている。しかしそうではない。主が私たちを支えてくださる。私たちを取り囲んでいる様々な力を超えて、その背後にあって確かに神の力が私たちの命を取り囲んでいる。神様は私たちを守っていてくだる。

 人はこんなことがないように、あんなことがないようにと、災いを恐れながら生きる。平穏無事であることが幸せであると考える。しかし、そういう生き方からは何も生み出すことはできないのだ。仮に平穏無事に過ごせたとしても、その人生には何の意味も見出されないであろう。ああならないように、こうならないように、そういう「 魔よけ 」みたいな生活ばかりしていても仕方ない。神は、困難や敵の存在を私たちに与える。その困難を貫いて生きることを通して、神はことをなそうとなさる。私たちを用いられるのである。私たちは、「 魔よけの信仰 」ではなく、むしろ、神の支配を信じているからこそ、果敢に人生の困難に挑んで行く、そういう生き方を、信仰は私たちに与えてくれる。ハンセン氏病との誤診を受けた井深八重さんは、その誤診の中に神の呼びかけを聞き取り、修道女となり、看護師の資格を取り、その生涯をハンセン氏病患者と共に生きた。エリザベス・サンダース・ホームという混血児たちの孤児院を設立した沢田美喜さんも、網棚に置かれた混血児の遺体の母親と間違えられる経験の中で、神の招きを聞き取り、孤児院のために生涯を捧げる道に生きた。たまたま間違えられて、自分は運河悪かったなどと受け止めていたら、そういうことにはならなかったであろう。彼女たちが「 魔よけの信仰 」に生きていたら、そういう人生は開かれなかった。様々な困難に囲まれて、なお、神と共に生きる、その信仰へと神は私たちを招いておられる。(2014年9月7日)