成瀬教会 <聖書日課> 8月4日~8月11日
8月4日(月) ヨハネによる福音書1章29節~34節
バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言いました。「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ
」と(29節)。救い主を証しようと思いを尽くし、心を尽くして待っていた彼のところに、イエス様は来てくださいました。神の小羊イエス様は、喜んで救い主を証しようとしている者のところに必ず、来てくださる方です。あなたが職場において、家庭にいて、所属する何かの集まりにおいて、この方をぜひとも証したいと願っていれば、必ず、主は訪れてくださいます。そして神の小羊としての御業、そう、私たち罪を贖う御業を現してくださるのです。
8月5日(火) ヨハネによる福音書1章35節~42節
シモン・ペトロとその兄弟アンデレがイエス様の最初の弟子になったことが語られています。「
そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『 あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――
岩 という意味――と呼ぶことにする 』と言われた
」(42節)。岩という言葉には、頑固であること、あるいは揺るがずに他者を支える・・・そう言ったイメージがあります。しかし福音書のペトロはおっちょこちょいで、思いきったことをする、大胆に失敗もする人物として登場しています。イエス様はペトロの本質をすでにご覧になって、ふさわしい呼び名を与えてくださっていたのです。彼がやがて立派に成長して奉仕する姿をビジョンとして思い描き、その名を与えてくださっていた。私たちにもイエス様の同じまなざしと愛とが注がれていますよ。
8月6日(水) ヨハネによる福音書1章43節~51節
ナタナエルは、いちじくの木の下にいたところをイエス様に見られていました。そして、これこそまことのイスラエル人だと言っていただきました。いちじくの木の下は、ユダヤ人が神の律法を学ぶ場所であったと言われます。また、いちじくは、年に二度、実をならせ、それが人々の貴重な食糧になりました。また、乾燥させて保存すると、緊急時の食糧にもなりました。ですから、いちじくは神の恵みの象徴だったのでした。この聖書日課があなたにとっていちじくの木であるよう祈ります。
8月7日(木) ヨハネによる福音書2章1節~12節(Ⅰ)
婚礼のお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうという失態が生じました。この婚宴は、母マリアの親戚の者の今栄であったと言われます。それでマリアは気を遣い、我が子イエスに助けを求めて訴えたのでした。それに対してイエス様は「
婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません 」(4節)と答えました。少し冷たい対応だと思われたかも知れませんが、当のマリアは拒絶されたとは思いませんでした。主イエスの答えを待つ準備をしたのです。信仰は不断に祈って待つことです。私たちの願う「
時 」に、願う「 やり方 」によってではなく、主が最も良い時に、最も良い方法で応えてくださる方であると信じて。
8月8日(金) ヨハネによる福音書2章1節~12節(Ⅱ)
「 イエスが、『 水がめに水をいっぱい入れなさい 』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした 」(7節)。召使たちは、なぜ、水がめに水を満たさなければならないのか、なくなったのはぶどう酒なのに・・・と思ったことでしょう。しかし言われた通り、黙ってイエス様のご指示に従いました。なぜ、私がこんなことをしなければいけないのか。なぜ、私がこんな荷を担わなければならないのか。どうして、自分はこういう道を通らせられるのか、分からないということがたくさん、あります。私たちの人生には・・・。しかしその時は分からなくても、一生懸命、与えられた道に従っていると、いつか意味が分からせてもらえ、それが恵みだったのだと告白できるときが来ます。主はそのように私たちの人生に手を添えてくださっています。
8月9日(土) ヨハネによる福音書2章13節~22節
神殿での礼拝の様子をご覧になってイエス様はひどく心を痛められました。そこには真の礼拝の心が見られなかったからです。手荒なイエス様を見た弟子たちは「
あなたの家を思う熱意が、私を食い尽くす 」という詩編69編10節の言葉を思い出しました。詩編69編は、義人がその正しさのゆえに苦しめられる事を歌った詩編です。弟子たちは、イエス様の熱意がかえってイエス様自身に危険を招くことになると思ったのです。イエス様は怒るユダヤ人に「
この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる 」(19節)と答えられました。これは、建物としての神殿を壊して作るというのではなく、神様を真実な心をもって礼拝する人間、神様の御霊が宿る神殿としての信仰者を、どのようにして建て直すかを宣言されたのでした。イエス様は、ご自身の十字架と復活を通して、それをなさると、その決意を語られたのです。それはあなたのための御業です。
8月10日(日) ヨハネによる福音書2章23節~25節
イエス様は、「 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである
」(25節)と、身が縮む恐るべきことが言われています。何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる・・・・私たちは相手の中にある真実なものを知ったり、あるいはそれに触れてしまったりすると、ガッカリしたり、怒ったり、軽蔑の心にとらわれてしまいます。しかしイエス様はそうではありません。このあと、3章に入ると、イエス様はまるでこの25節の言葉の代表のように登場してくるニコデモと、丁寧な対話をし、彼に愛の言葉を語ってくださいます。知ったからこそ、嫌に鳴ったというのではなく、知ったからこそ、なお愛した。それがイエス様というお方です。