2014年8月10日日曜日


先週の説教要旨「 イエスという別の王がいる 」使徒言行録17章1節~15節 

キリスト教の歴史は、キリストの時代から今日に至るまで、迫害と弾圧の歴史であった。しかし不思議なことに、迫害や弾圧がひどくなればなるほど、イエス・キリストの教えは広まり、信者たちの信仰は強められて行った。それはあたかも、イエス・キリストの教えという火の粉が、迫害という大風にあおられて世界中に飛び散り、いたるところにある偽りの神々を焼き尽くして行ったかのようである。イエス・キリストに対する信仰は、どんなに人間が「 こういうものはいらない。世から抹殺してしまおう 」と迫害したとしても、決して抹殺することなどできない。かえってますます、増え広がって行く信仰なのである。なぜなら、ガマリエルという老学者が「 あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない 」(使徒5章38節)と言った通り、この信仰は人間が作り出したものではなく、神に起源を持つ、神が人間に授けられた信仰だからなのである。今朝の箇所は、パウロとシラスがこの信仰を伝えるために、テサロニケ、ベレヤに出かけて行き、そこで迫害に遭遇したことを記している。

そこでパウロが語った内容が2節と3節に記されている。パウロは聖書を引用して、「 メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた 」こと、「 このメシアはわたしが伝えているイエスである 」』説明し、論証した。メシアという言葉が2回出ているが、「 メシア 」と言う言葉は本来、「 油を注がれた者 」という意味である。誰かがある職務につくときに、頭に油を注いでその職務につけるという儀式を行なった。この儀式を通して職務につく代表的なものは王であるが、この儀式を受けて王になった者が必ずしも、良い王として国を支配してくれるわけではなかった。中にはとんでもない悪王もいた。国民は苦しめられ、国はボロボロになって行く。やがて国民の間に、立派な王、本当に国民ひとりひとりのことを考えてくれる王が私たちの国に誕生し、この国を救ってくれるという願望が抱かれるようになった。そこから、このメシアという言葉が「 救い主 」を意味する言葉に変わって行ったのである。パウロは「 私たちのことを本当に考えてくれる王は、あのイエス・キリストという方なのであって、人々はイエスを十字架につけて殺してしまったが、神はイエスを死者の中からよみがえらせたので、イエスは今も、生きて働いておられる。それは聖書に予告されていたことだった 」と語り、人々にこのイエスを受け入れ、信じるようにと勧めたのであった。十字架につけられて、復活したイエスは今も生きておられるが、私たちは目で見ることはできない。そのイエスを自分の王として、自分の救い主として、受け入れることを『 信仰 』と言う。 今の時代の日本人は、誰も王など必要としないと言うだろう。しかし人には必ず、王がいるのである。 人には、必ずその人を支配しているものがある。人間であったり、持ち物であったり、その人の価値観であったり・・・その人を支配し、動かしているもの、それがその人の王なのである。キリスト教の信仰は、自分が自分の王になって、自分の人生を支配するということをやめてしまって、このイエスという方を自分の王として迎え入れ、自分の人生を支配していただく。それが、キリスト教の信仰なのである。言ってみれば、政権交代が起きるのだ。自分が握り締めていた政権を、イエスという方に向かって差し出す。それがキリスト教の信仰である。

パウロがそのように伝道すると、人々の中には肯定的な反応と否定的な反応が生じた(4節、5節)。ねたみを抱いた者たちは、パウロをこの町から追い出そうと画策し、暴動を起こしてヤソンの家を襲った。ヤソンがパウロたちをかくまっていると思ったのである。ここで興味深いのは、反対者たちがキリスト者たちを、「 世界中を騒がせてきた連中 」、皇帝の勅令に背いて、「 イエスという別の王がいる 」と言ったことである。ヤソンは確かに彼らが言うように、「 世界中を騒がせた連中 」になったのだ。イエス・キリストへの信仰は世界に大きな波紋を投げかけることになる。しかしそれは混乱ではなく、世界中に麗しい生き方、新しい秩序を構築するための波紋である。その秩序とは、「 イエスという別の王 」、いや、その「 真の王 」に従うという秩序であり、その秩序が生み出す麗しい生き方である。イエス・キリストを信じる者というのは、この世の王をはるかにしのぐ、別の王であるイエスに忠誠を誓っている民のことであり、そういう信仰を持っている人たちは、迫害に遭うこともあるが、その迫害の中で本当に麗しい生き方を生み出して行く。戦時中、迫害に遭いながらも、多くのユダヤ人が上海に向かえるように助けたホーリネス教会の人たちは、その一例である。ナチスが武力をもってもなしえなかった支配を、彼らは愛の力をもってなし遂げたのである。その後、脅威を誇ったナチスは滅び、ホーリネスの教会は再び回復し、今は日本中で神の愛を伝えている。一方、ベレヤの人たちは非常に熱心に御言葉を受け入れ、それが本当かどうか、つまりパウロの説教が正しいか、正しくないかを聖書を調べて吟味をした。聖書は本当に不思議な書物で、本当に真面目に読んで行くならば、そこに主イエスへの信仰が呼び起こされるのである。聖書を通してこの方と出会い、この方を真の王として受け入れ、この方にあって麗しい生き方をこの世界に造り出して行こう。(2014年8月3日)