伝道者パウロが初めてヨーロッパ大陸に入り、そこに教会を立てるようになって間もなくの頃、フィリピの町で福音を宣べ伝えているがゆえに、パウロたちは捕らえられ、投獄されてしまった。しかしパウロたちは、それを少しも苦にしないで、牢屋の中で夜中に賛美していたというのである。真夜中に礼拝していたわけである。真っ暗な牢獄の中で、2人は他の囚人が苦しみ、悩んでいる中にあって、神を賛美することを知っていた。そして賛美歌を歌っているうちに突然、大きな地震が起こって、その牢屋の土台が崩れたというのである。それを見て、看守はすごく慌てて、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺をしようとした。パウロたちはそれを抑えて、自分たちは逃げていないことを告げると、その看守が大変喜んだだけでなくて、「 先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか 」と聞き、パウロたちは「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます 」と答えた。この時以来、この御言葉は多くの人を慰め、励ましてきた。そしてその言葉の通り、この看守と家族は救われて信仰に入ったというのが今朝の話の内容である。
「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます
」・・・この朝、私たちに与えられた御言葉はこれである。私たちのうちの多くの者は、すでに救いを受けている者、洗礼を受け、信仰生活をしている者である。そういう者にとって、この御言葉はもはや無用なのであろうか・・・。そうではないだろう。この御言葉はおそらく、私たちのあらゆる生活、私たちのあらゆる時にあたって、一番強い言葉として響いてくるのではないか。私たちの悲しみの日に、一番私たちを慰めてくれるのは「
主イエスを信じなさい 」という言葉であろうと思う。また、私たちの怒りの日に、その怒る心を静めさせ、人を恨む心を取り除いてくれるのも、「 主イエスを信じなさい 」という言葉ではないかと思う。そういう意味からして、この御言葉は私たちが信仰に入ったときに与えられた御言葉であると同時に、その後の信仰生活においても、絶え間なく、事あるごとに、私たちが聞かなければならない御言葉であると思う。この御言葉は、看守にとって大変な事態を収拾する言葉であった。地震が起きて、牢屋の土台が崩れてしまうような事態になり、彼は自殺しようとした。囚人たちが逃げてしまったら、その責任を問われる、もうダメだ。自分が今まで大切にし、コツコツと努力して積み上げてきた生活が、たったひとつの出来事だけで、すべて崩れてしまったように思え、彼は絶望に陥り、激しく取り乱した。そういう大変なときに、彼を慰め、その事態を収めることができたのは「
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます 」という御言葉であった。そうであれば、私たちの日常生活においても同じように、「 主イエスを信じなさい
」ということだけが、混乱の中で私たちを本当に静め、私たちを整えてくれるのではないかと思う。
「 主イエスを信じれば救われる
」と言われている。考えてみると、人は皆、救われるための努力をしているものである。一生懸命にお金を稼ぐ、家を建てる、健康のために気を遣い、家族を養い、そして友だちを作り、少しでも豊かな生活が出来るようにと、人は努力をする。それは、自分は破滅したくない、滅びたくないという思いが心の底にあるからである。実際に、そういう思いを「
救い 」という言葉で表現することはないにしても、「 安定した、より豊かな生活を送りたい 」という一心で、人はあらゆる努力をしている。私たちもかつては、そうであった。しかしそういう努力をいくら積み重ねてみても、それで自分は救われるわけではない、ということを知ったから、私たちは信仰を持ったのではなかったか。あれも必要、これも必要、そう言っていろいろなものを手に入れ、自分の生活を整えてきた。確かにそれらのものは必要だった。しかしそれらの必要なものの中で、最も必要なもの、私たちの生きているときも、死ぬときも、すべてのときを通して慰めを与えてくれるもの、そういうものは一体、どこにあるのか。それは主イエスを信じることにあった。主イエスを信じるとき、私たちは激動の生活の中にあって、何が起こっても、拠り所を持った生活をすることができる。だから信仰を持ったのである。
この信仰の力に生かされている姿、救われている者の姿をパウロたちに見ることができる。彼らは獄中にあって神を賛美していた。足かせをはめられ、夜も安心して寝られないような状況にあって、そんな不安などないかのように、神を賛美した。他の囚人たちはそれに聞き入っていた。パウロたちは、ただ賛美の歌を歌うだけであった。神にお願いして、とんでもない奇跡を呼び起こして、人々をやっつけてもらったというのではない。ただ賛美を歌っただけ。しかし神はその賛美に応えてくださった。切羽詰った状況の中で、うつむいて考え込んでいても何も始まらない。イエスを信じるのだ。信じて賛美する。目を天に上げて、神に口を向けて開く時、あなたの生きている土台は動くのである。神が応えてくださるから。そのようにして、神は牢屋の中でも主イエスを信じたパウロとシラスの賛美の歌をそのように生かしてくださった。私たちは、この神の御業は今でも続いていると信じる。私たちにおいてもそうなのだと・・・。 (2014年7月27日)