2014年8月10日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月11日~8月18日

8月11日(月) ヨハネによる福音書3章1節~15節(Ⅰ)
  ニコデモはファリサイ派に属する議員でしたから、そうとうな社会的地位がありました。それでも、その信仰生活には十分な満足が得られていなかったようです。彼はイエス様のなさるしるしを見て、この方は神が共におられると感じ、人目を避けて夜、イエス様に会いに来たのでした。そこでニコデモとイエス様の対話がなされますが、チグバクな対話になってしまいます。イエス様の霊的な観点からの語りかけをニコデモは肉的な観点から受け止めようとしたからです(6節)。「 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない 」(3節)。神の国とは神の支配のことです。神の支配/神が働いておられるのを見ることは、洗礼を受け(5節)、聖霊をいただかなければ見られないのです。私たちが新しく生まれるのは、新しくこの世界を見る(神が働いておられる世界として見る)ようになるためなのです。

8月12日(火) ヨハネによる福音書3章1節~15節(Ⅱ)
 「 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない 」(14節)。この「 ねばならない 」は、神の意志の強さを示しています。何としても、人の子(すなわち御子)を上げなければならないと・・・。この上げるというのは十字架のことを指しています。昔、イスラエルの民は荒野の旅において神に背き、毒蛇に噛まれるという神の裁きを受けました。しかし、モーセが青銅の蛇を竿の先につけて掲げると、それを見た人は皆、癒されたのでした(民数記21章)。十字架を通して、人はその罪を裁かれ、十字架を仰ぐことを通して人は罪赦されるのです。十字架は、私たちにその罪を深く悟らせ、同時にその赦しの深さを実感させます。

8月13日(水) ヨハネによる福音書3章16節
 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである 」という御言葉は、カンバーランド長老キリスト教会の信仰告白が「 福音の凝縮 」と呼んだ御言葉で、私たちにとっては宝に値します。「 滅びる 」と訳されている言葉は、いなくなった羊のたとえでは「 見失う 」と訳された言葉でもあります。いなくなった羊のイメージを重ねながら、この御言葉を思い巡らすと、意味がとてもよく分かると思います。私は最近、息子を亡くすかも知れないという体験の中で、神が独り子を与えられたということがどんなに簡単でないことか、痛切に示されました。神が人間を愛されることを、私たちは案外、簡単なことと考えてしまっているかも知れませんが、決してそんなことはありません。神が人を愛されることは激しく、痛みが伴うことです。

8月14日(木) ヨハネによる福音書3章17節~21節
 「 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである 」(17節)は、聖書の中で一番厳しい言葉だと思います。裁きは世の終末を待つまでもなく、現在すでに決定的に起こっていると言うのです(それは神を失っているがために、様々な罪の束縛の中に置かれてしまっているということです)。この「 裁く 」と訳されている言葉は、「 分ける 」という意味の言葉で、ヨハネによれば、イエス様の到来は世の人を2つに分けてしまう、信じる者と信じない者のどちらかに。イエス様を信じないことを罪であるとヨハネ福音書は考えているので、その意味ではイエス様は世を裁くために来たのではないけれども、結果として、世の人を2つに分けてしまうのです。主にとってそれは悲しみです。

8月15日(金) ヨハネによる福音書3章22節~30節
 「 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない 」(30節)。バプテスマのヨハネは、あの方、すなわち自分の後からお出でになる救い主イエス様が来られれば、イエス様は栄え、自分は衰えて行くと言いました。それは人々が皆、自分の方から救い主の方に行ってしまうようになることを言い表したものでした。しかしヨハネはそのことに喜びを感じています。自分が衰えながら、救い主の栄光が見えるからです。私たちも様々な面で衰えて行きますね。でも救い主は、そこでも救い主としての栄光を現してくださる方です。あなたのその衰えの中で・・・。

8月16日(土) ヨハネによる福音書3章31節~36節
  「 天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる 」(31節~33節)。イエス様は天におられたときに見たこと、聞いたことを証してくださっています。そのことが聖書にはたくさん記されているのです。イエス様は、まるで人が自分の故郷の様子を懐かしく、うれしそうに語るように、そこで見たこと、聞いたことを心を込めて私たちに伝えてくださっています。その故郷の様子とは、「 天の父は何と素晴らしい、あなたへの愛に満ちた方であるか 」という一点に尽きます。ハレルヤ。

8月17日(日) ヨハネによる福音書4章1節~15節(Ⅰ)
 イエス様とサマリアの女の対話です。この女の人にはいろいろな複雑な事情がありそうです。他の人がしない暑くて大変な時間帯にわざわざ水汲みをしていますから。できるだけ他の人と会わないようにしていたのでしょうか。明らかに他人の目を恐れて生きています。しかし、いつもは人がいない井戸に、見かけぬ独りの男の人が座っていました(6節)。まるで、彼女がやって来るのを待っておられたかのように・・・。そうです。イエス様は彼女と、その苦しみを抱えた姿の彼女と出会い、そして対話し、彼女の魂を癒そうと待ち構えておられたのです。あなたも同じような体験がありませんか。苦しんでいたあの日、待っておられたイエス様と出会って人生が変わった・・・。彼女の姿は、あの日の私たちの姿そのものですね。