2014年8月17日日曜日


先週の説教要旨「 神は遠く離れてはいない 」使徒言行録17章16節~34節 

 伝道者パウロは、アテネの町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。「 憤慨した 」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「 彼の霊がかき乱された 」という意味である。パウロの霊の部分が黙っていられなくなったのだ。霊というのは、神様とかかわりを持つ人間の内的なところである。私たちは霊において神様と語り合い、霊において神様を父と呼ぶ。その霊が黙っていられなくなったのだ。伝道するというのは、黙っていられなくなるというところがあるのだと思う。真の神との関わりに生きていない人々の姿に黙っていられなくなる。自分の愛する方にそのようにツレない態度を取らないでほしいと、霊がジリジリした思いになる。その思いがなければ、教会を大きくして一喜一憂することは出来ても、本当の伝道はできないのだと思う。そこでパウロは、アテネの町の人々に伝道した。アテネの町の人々は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた(231節)。つまり、好奇心が旺盛だったのである。そういう好奇心は一面、良いようだが、他面、よくない面もある。自分の心で判断して、それが楽しければいいと思うだけで、そこにある真理によって自分の心を揺り動かされ、それによって自分の生活を変えて行こうとする姿勢はないのである。それが単なる好奇心の持つ問題点である。それでは私たちは、どのような姿勢で神の言葉に向き合おうとしているだろうか、そのことを考えないわけには行かない。パウロは、そういう知的好奇心で私の話を聞くのではダメだとは言わないで彼らに向かって語り出した。アテネの町で「 知られざる神に 」と刻まれている祭壇を見つけた。これは、私たちにはまだ知らない神がおられるかも知れない。もしその神が真の神であり、最も力のある神であったならば、その神を祀っていないことほど、失礼なことはない。そのような失礼がないようにと、わざわざ「 知られない神に 」という祭壇を造っている。あなたがたは真に宗教心があついではないか。そのあなたがたに、私が真の神を紹介しようと言って、パウロは語り始める。

ユダヤ的な背景も、旧約聖書も知らない人たちに向かって、何をもって語り始めるか。パウロは、神は万物を造られた方であると語る。創造者としてすべてのものを超えた方。何ものにも束縛されない。神様は人間の造った神殿には住まわれない。神様は人が造った神殿に閉じ込められ、私たちの手の中に収まるような方ではない。神殿の祭司に世話されることによって、生き延びる方でもない。むしろその逆。あなたがたを生かす神なのだ。すべてのものをお造り、そして造りっぱなしではなく、季節を与え、境界線を定め、そして私たちに近くおられる。収められないほどに高く、人の手から逃れているのではなく、思いがけず近くにおられる方なのであると。私たちは神の子孫(29節)というのは、私たちが今なぜ、このように生きていることができるのか、その根源を手繰って行くと結局、神様の御手に帰する。神様こそ私たちの出発点、私たちの根源であるという意味である。その神様に対しての無知は、無知の罪に他ならず、無知は罪であるがゆえに裁かれなければならず、裁かれるべきものであるがゆえに悔い改めなければならないものであるとパウロは語る。

 パウロが語ったこれらの言葉の中で、ぜひ、今日心に留めたいのは「 神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません 」(27節)ということである。パウロは特に信仰深い人々に向かって、神は遠く離れてはいないと言ったのではない。アテネの町の極普通の人々に向かって言ったのだ。ここにいる人たちが特に気持がきれいだから、努力をして、一生懸命精進をしているから、だからあなたがたは神様に近くなったのですよと言ったのではない。そうではなくて、神様があなたがたから遠く離れることを望まれないのだと、言ったのである。人間は光を嫌うものだと、ある人は言った。光を好むのではなくて嫌う。人間は光である神様を嫌って暗いところに潜り込み、逃げようとするものだと・・・。 この逃げるというモチーフは、聖書の中にも数多くある。たとえば、アダムとエバ、預言主ヨナ、放蕩婿のたとえ話。これらの話は特別な人間のことを指しているのではない。人間は皆、神様の顔をできるだけ避けようとする習性を持っているのである。なぜ、人間は神を避けようとするのだろうか。神は人間を縛るものだと思うからである。神のもとにいるということは、その厳しいまなざしのもとに、がんじがらめに縛られる。そういう生活だと思うのである。神さえいなければ、人間はもっと自由自在にふるまえるのではないかと考えるのである。しかし神は、人間を縛る神ではない。あるいは裁判官のように厳しく人間を査定している神ではないのだ。神様は人間を査定して、評価付けをして、人間を追い詰められるような方ではない。そのために神様は人間に命を与えられるのではない。神様は人間を生かすために命を与えておられる。神様は人間の命がそれぞれのかけがえのない個性を持っているものとして、それをそのまま生かすために、命を与えておられるのだ。およそ、ひとつの命というものは、包まれなければ、育つことはできない。排除されて育つことなどはできない。神様は私たちの命を包むことの中で育てようとしておられる。十字架の出来事はその御業の証だ。神様は私たちに近くおられる。何という恵み!(2014年8月10日)