2014年8月24日日曜日


先週の説教要旨「 落胆と恐れの先にあったもの 」使徒言行録18章1節~17節 

 18章はコリントにおけるパウロたちの伝道の様子が記されている。パウロはどの町に行っても、伝道することに並々ならぬ熱意を持っていたが、このコリントにおいては少々、様子が違ったようである。そのことをパウロ自身がコリントの信徒への手紙の中で次のように語っている。「 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした 」(第Ⅰの手紙2章3節)。衰弱、恐れ、不安にとりつかれたパウロの姿がそこにはある。何か具体的な理由があったのか。「 そちらに行ったとき 」とあるから、コリントの町に着く前にパウロの身に何かが起きていた。そこで多く人が指摘するのは、直前のアテネの町での伝道が思うように行かなかったことが大きなストレスになっていたのではないかと言うのである。確かに17章32節~34節を見ると「 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『 それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう 』と言った 」とある。周囲の無理解、さらにはユダヤ人による攻撃もあった。パウロは肉体の持病を抱えていたと言われるから、そのことも彼を衰弱させたのだと思われる。コリントに着いたとき、伝道者パウロは確かに行き詰っていたのである。神はパウロたちだけでなく、私たち信じる者に落胆したり、恐れや不安を抱くような経験をお与えになる。しかしそれは信じる者たちをつぶしてダメにしてしまうためではなく、その恐れと不安の先に神が用意された恵みへと導くためなのである。だからもし、パウロがその恐れと不安の中にうずくまったままでいたならば、コリントでの伝道は実を結ばず、コリントの町に教会は生まれなかったであろう。しかし恐れと不安の中で、なお神に向かって顔を上げ、神の導きに従うという信仰を働かせたからこそ、コリントの町に教会が生まれたのである。

創世記第22章はそういう神のなさりようの証である。神は、後に信仰者の父と呼ばれるようになったアブラハムに、「 あなたの独り息子を私へのいけにえとして捧げなさい 」とお命じになった。この命令はアブラハムをひどく落胆させ、彼に恐れと不安を抱かせた。しかしその恐れと不安の中でアブラハムはなお、神に向かって顔を上げた。「 どこまでも神に従って行く 」という思いを持ち続けた。その結果、アブラハムは落胆と恐れの先に、神が用意していてくださった恵みの世界へ到達したのだった。この出来事を通して人々は、「 主の山に備えあり 」という言葉を口にするようになった。神は落胆と恐れの先に恵みを用意しておられる。神を信じる者にとって、落胆と恐れは決してそのままでは終わらないのである。

 神は、恐れと不安の中にいるパウロを、その先に用意された恵みの世界へと彼を導いて行くためにパウロを励まし、その信仰を働かせるようにと促された。9節、「 恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる 」。神があなたと共におられるというのは、具体的には不安と恐れの中にいるあなたにも、そのあなたの信仰を働かせるようという、神の促しが聞こえてくるということである。パウロはアテネの町で一生懸命伝道したにもかかわらず、アテネの人々はあざ笑い、また今度、聴くことにするよと言って去って行った。パウロにはそれがこたえた。衰弱し、恐れと不安の中に突き落とされた。福音を語ることに落胆した。しかしパウロと共におられる神は、そこでなお、パウロに信仰を働かせ、福音を語り続けなさいと促された。パウロはどうしただろうか。信仰を働かせたのだ。もう一度、福音を語ろうと、神への信仰を働かせ、「 この町には、わたしの民が大勢いるからだ 」という神の約束を信じて動いたのである。その結果、どうなったか。パウロはコリントの町に一年半の長期にわたってそこにいて、伝道し続けた。コリントに教会が生まれた。コリントの教会は、やがて、エルサレムの教会、アンティオケアの教会についで、当時のキリスト教会を代表するような大きな教会となる。新約聖書の中にコリントの信徒への手紙と題する書物がⅠとⅡ、合わせて2巻入っているが、そのような聖書に残る手紙を2通もいただくことになる教会がこのコリントの町に建ったのだ。パウロが恐れと不安の中で、なお神の促しに応えて、信仰を働かせたから・・・。それで神が用意されていた恵みが姿を現したのだ。これらの経験を経て、パウロは後に、ローマの信徒に宛てた手紙の中でこう語った。「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」(ローマ8章28節)。だから私たちは、今、試練に遭っていても、恐れを抱いてしまう状況に置かれていても、落胆してしまうようなことになっていたとしても、それはそのままでは終わらない。神はこの先にある恵みを必ず用意していてくださる。そう信じてよいのだ。そう信じて顔を上げて進むのである。「 人はみなけなげに生きている 」―神は苦しみ、悲しむ者と共におられる(副題)―という本に記されたひとりの姉妹の証がある。恐れと不安の中で、司祭を通して聞こえてきた神の促しに信仰を働かせて応えたある姉妹は、今まで知らなかった新しい恵みの世界へと導かれるという結果を得た。今まで知らなかったことに大きな喜びを知るようになったのである。それは、ここに集まっている神を信じる私たちにも与えられている祝福である。 (2014年8月17日)