2014年8月24日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月25日~8月31日

8月25日(月) ヨハネによる福音書6章1節~15節
  「 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた 」(11節)。パン五つと魚二匹しかないと弟子たちは思いました私達も同じように考えるかも知れませんね。しかしイエス様は「 それ 」をとって感謝の祈りを捧げました「 これしかない 」というのではありません。「 これがある 」というところから始められたのです。そしてそこから始めたとき、その賜物が人々を生かすことになりました。私たちも「 これがある 」というところから始めましょう。

8月26日(火) ヨハネによる福音書6章16節~21節
 「 イエスは言われた。『 わたしだ。恐れることはない 』。そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた 」(20節、21節)。夜、荒れた海、狼狽している弟子たちにイエス様は声をかけられました。彼らがイエス様を迎えようとしたときに舟は「 目指す地に着いた 」と言われています。危機の海で、そのただ中に立ってくださるイエス様の声を聞けるかどうか、そこに私たちの信仰生活の成否はかかっています。信仰の生活は、順風に送られて目的地に着くようなものではありません。「 強い風が吹いて。湖は荒れ 」(18節)行き悩む経験を強いられます。私たちの舟に近づいて来られるキリストに叫ばないではいられません。この舟は試練を貫いて、救い主と共に目的地に着くのです。
 

8月27日(水) ヨハネによる福音書6章22節~33節
 「 イエスは答えて言われた。『 神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である 』」(29節)。神の業を行なうために何をしたらよいか、と言う質問に答えられたイエス様。あれこれのことをせよ、と言うのではありません。まず救い主を信じることから始めよ、と言われたのです。信じた後に良い行動は生まれるのです。信じないで神の業を行なうことはできないのです。まず主を信じましょう。

8月28日(木) ヨハネによる福音書6章34節~40節
 「 イエスは言われた。『 わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない 』」(34節)。これは、私たちの教会で聖餐が執行される時に読まれる聖書の言葉ですね。イエス様は十字架にかかることによって、その肉体をまさに私たちのための命のパンとしてくださいました。聖餐の時に読まれるにふさわしい御言葉です。続いてイエス様は「 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである 」(39節)と言われました。イエス様はあなたを終わりの日に復活させることこそが、ご自分の地上における大切な業なのだと言われたのです。私たちはこの御言葉を抱いて、臨終の時を迎えることができるのです。何と心強いことでしょうか。私たちにとって、肉体の死は永遠の命へと至るための単なる通過点になってしまっているのです。その恵みを聖餐のたびに、繰り返し味わいましょう。

8月29日(金) ヨハネによる福音書6章41節~51節
 「 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない 」(49節、50節)。荒れ野を放浪した神の民は、神から与えられたマンナを食べて養われました。しかし彼らのつぶやきは絶えませんでした。「 水がない、肉が食べたい、荒れ野で死なせる気か・・・」。彼らはマンナを食べながらも、罪によって滅ぼされてしまいました。それは、彼らの罪の結果です。しかしイエス様が私たちに与えてくださるパンはご自身の「 」です。それは、私たちの「 肉の罪 」のために裂かれたもので、このパンをいただく私たちは、もはや荒れ野で罪のために行き倒れることはありません。主の肉は私たちの罪を贖い、永遠の命を与えるパンだからです。

8月30日(土) ヨハネによる福音書6章52節~59節
  「 イエスは言われた。『 はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない 』」(53節)。何といまわしい言葉でしょうか。誰かの「 」を食べ、誰かの「 」を飲むと言うのですから。イエス様はそのいまわしい言葉を口にされます。考えてみれば、十字架そのものがいまわしい残酷極まりない出来事です。神の御子の体がそのように引き裂かれなければ、罪人が命をいただくことなど、あり得なかったのです。いまわしきは私たちの罪だった。

8月31日(日) ヨハネによる福音書6章60節~71節
 「 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『 実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか 』」(60節)、「 シモン・ペトロが答えた。『 主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます 』」(68節)。ここには、イエス様の言葉についての全く違う判断が見出されます。それは、満腹ということを求めて弟子になった者(26節、34節)と、イエス様をキリストと信じて弟子になった者との間に現れた決定的な相違でした。信じることで弟子になるのでなければ、イエス様の真実やその偉大さは決して知ることはできません。どうぞ、信仰に生きる者になりましょう。