2014年8月17日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月18日~8月25日

8月18日(月) ヨハネによる福音書4章16節~30節
  「 さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません 」(29節)。サマリアの女はイエス様に出会って、秘密にしていた自分の過去が明らかにされました。知られたくない陰の部分を抱いて、逃げ続けていた彼女が逃げられなくなったのです。思いがけないことです。しかしそのことが彼女に不思議な平安をもたらしました。もう逃げなくてもいい、ありのままの自分を知っていてくださる方がいるという安堵の思いです。信仰とは、救い主に知っていただいているという安心であります。

8月19日(火) ヨハネによる福音書4章31節~42節
 「 彼らは女に言った。『 わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです 』」(42節)。人が信仰に導かれるのは、人によるのであります。家族、友人、知人などに導かれて信仰に入ります。それから自分の問題、悩みや傷みをもってイエス様のところに行きます。そうすると、主の言葉を、主からの言葉としてとして聞くことができるのです。そして信仰は自分のものになります。だからもし、いつまでも人に頼っていたら、信仰のことは分からずじまいで終わります。
 

8月20日(水) ヨハネによる福音書4章43節~54節
 「 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである 」(36節)。すべての労苦のあとの収穫は喜びの季節です。神はひとりで収穫の喜びを味わうこともおできになりますが、その喜びに私たちをも引き入れてくださいます。神は、私たちと一緒に収穫を喜びたいのです。拙い者が、神の国の働き手とされている、それが私たちキリスト者の光栄です。伝道しなければならないというのではありません。私たちも伝道することが許されているのです。その違いは大きい。

8月21日(木) ヨハネによる福音書5章1節~9節
 ベトザタの池は現代社会の縮図、一種の競争社会です。誰もが皆、その競争に勝っていい思いをしたいと思っています。長く待ってきた人がかわいそうだからと、整理券を発行する人など誰もいないのです。人は切羽詰まると、皆、人のことより自分のことを優先します。そういう人間の本性を嫌と言うほど見てきたのに、それでも池を離れることができず、池にしがみついているこの病人・・・。池を離れることは自分の今までの頑張りを否定することであり、それはとても辛いことでした。前にも進めず、後ろにも戻れない・・・。そんな身動きが取れなくなくっているこの病人に光が差したのは、イエス様の言葉に従ってみるという新しい生き方が示されたときでした。競争に勝つことではなく、イエス様の言葉に従うことによって開かれていく、そういう人生というものがあるのです。

8月22日(金) ヨハネによる福音書5章10節~18節
 「 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『 あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない 』」(14節)。ここで言う罪とは、愚痴、不平、不満であります。人がしてくれないとか、冷たいとか。彼はついさっきまで、「 主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです 」(7節)と言っていたではありませんか。救い主イエス様に出会い、癒されたのだから、もうそんな日常に落ち込んではならないと、イエス様は言われるのです。癒された感謝をもって、主を仰いで生きるのです。顔を上げれば道は開けます。顔を伏せて、つぶやく者に悪い事は降りかかってきます。

8月23日(土) ヨハネによる福音書5章19節~30節
この箇所は、一人の人が神様を信じて、洗礼を受ける時に、そこで一体何が起こっているのか、それをイエス様がお語りくださっていると読むことができます。「 はっきり言っておく 」という言い回しが、19節、24節、25節と3回 にわたって出て来ています。原文ギリシャ語では「 アーメン、アーメン、あなたがたに告げる 」となっています。「 わたしが告げることは真に確かな事だ 」と言う意味です。このような事が、「 私を信じる者 」の身に起こっているのだ。それは確信すべき確かな事だと念を押しておられるかのようです。「 わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている 」(24節)。これが私たちに起こっていることです。もちろん、この死は肉体の死のことではなく、霊的な死、すなわち滅びのことです。信じる者はたとえ肉体が死んでも、永遠の命へと移らされているのです。

8月24日(日) ヨハネによる福音書5章31節~47節
 聖書を間違わずに読む方法があります。聖書はいろいろな読み方がなされますが、大事なのはこの一点、「 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ 」(39節)とあるように、そこに恵み深いイエス・キリストのお姿が浮かび上がってくるように読んでいれば、それは正しい読み方なのです。主人公であるイエス様のことが大好きになり、NHKの朝のテレビ小説のように、主人公の一挙手、一投足にドキドキ、ハラハラしてしまう。そのように聖書に接しているなら、それは正しい読み方をしている「 証拠 」です。イエス様が大好きになる。そのように読めればいいのです。