2014年7月6日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月7日~7月13日

7月7日(月) テモテの手紙Ⅱ 4章9節~15節
 デマスのことは(10節)ショッキングです。ある人はこれをデマス病と呼びました。獄中の師パウロを捨てた。迫害に耐えられなかったのか?伝道者としての自分の貧しさに失望したのか?パウロに叱責されたのか?それともテサロニケに愛する女性でもいたのか?パウロは、ただ一言、この世を愛したからだと言います(10節)。デマスも、一度はパウロと同じように主に献身の誓いを立てたであろうに・・・。デマス病は、いつでもどこでも私たちを襲う可能性があります。牧師であろうと、長老であろうと、信徒であろうと例外なく。牧師を捨て、教会を捨てることがあるのです。神がこの病から私たちを守ってくださるよう祈らずにおれない。

7月8日(火) テモテの手紙Ⅱ 4章16節~22節
 「 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように 」(16節)。使徒言行録を読むと、パウロは自分がなぜ福音の伝道者であるのかを弁明しなければならない時が何度もありました。しかし誰からも助けられず、たった独りで弁明しなければならなかった。そこでなおパウロが立ち続けることができるのは、主がそばにいて力づけてくださったからです(17節)。パウロがそのような恵みを体験したのは、パウロが特別だったからではありません。主に祈る者すべてに起きる恵みの事実なのです。ですから、パウロは「 主があなたの霊と共にいてくださるように 」(22節)と心を込めて祈っているのです。主はあなたのそばにもいて、力づけてくださいます。

7月9日(水) コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節(Ⅰ)
 コロサイの教会は、パウロが伝道者として送り出したエパフラスによって建てられました。パウロは、コロサイの人たちと会ったことはないのです(7節)が、彼らに対して豊かな愛を抱いていたことは手紙から十分に伝わってきます。パウロは、「 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いた 」(4節)と語ります。すべての聖なる者への愛、コロサイの人たちもパウロ同様、まだ会ったことのないクリスチャンに対する愛を豊かに抱いていたのです。クリスチャンは、まだ会ったことのない同胞に対する愛を、豊かに抱けるのです。国内外を問わず。これも恵みです。

7月10日(木) コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節(Ⅱ)
 「 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、・・・実を結んで成長しています 」(6節)。「 福音が成長する 」とは、おもしろい言い方です。コロサイの手紙は、伝統的にパウロが書いた手紙と理解されていますが、そうではないと言う学者もいます。他のパウロの手紙には見られない福音の言葉や思想が現れているからと言うのです。しかし、パウロにも一定の癖、言葉遣いもあるでしょうが、それが生涯変わらないとは決めつけられません。福音は成長するのです。主イエスの福音は生きているから成長するのです。生きているということは、いつも新しい姿を見せるのです。ワンパターンではない。新しい実を結び続けるのです。あなたのところでも。

7月11日(金) コロサイの信徒への手紙 1章9節~12節
  パウロは、会ったことのないコロサイの人たちのために祈ります。パウロが真っ先に祈るのは、教会員の中に神の御心をよくわきまえる知識が占領するようになることです(9節、10節)。そのように神をよく知る生活の中で大切なもうひとつのことは、「 神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように 」(11節)です。キリスト者の生活において、耐え忍ぶことはとても重要なことです。キリスト者の生活と忍耐は切っても切り離せません。耐えられなくなるとき、キリスト者の生活は曲がってしまうのです。そのためにも神の栄光の力に強められるよう祈るのです。私たちもそのために祈りましょう。

7月12日(土) コロサイの信徒への手紙 Ⅰ章13節~20節
 「 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました 」(20節)。万物の問題は、平和を失っている、神との和解が成り立たなくなっていたと言うことです。万物の支配者として責任を持っている人間の罪により、全て神様に造られたものと神様との関係が根本のところで崩れているのです。そしてもう一度、両者の間に平和を打ちたてるためにどうしても必要だったのがキリストの十字架の血です。万物の創造と支配に立合い、それどころかその根拠となってくださった御子が血を流さなくてはならなかった。私たちの存在は神の揺るぎない愛に支えられています。

7月13日(日) コロサイの信徒への手紙 1章21節~23節
 「 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました 」(22節)。聖なる者( 神のものとされた者と言う意 )は、神の前にきずのない者、とがめるところのない者とされています。信仰が成長するにつれ、罪に対する感覚が鋭敏になります。自分の犯す罪に敏感になるわけです。そのとき、果たして自分は本当にきずのない者なのだろうか?という悩みや不安が生じます。それは正常な感覚であり、そのような事を考えたことがないと言うことの方が問題になるわけですが、自分の目に映る現実に逆らってでも、神が自分をきずのない者として見ていてくださることにとどまり続ける(23節)。それが大事です。