2014年7月14日月曜日


先週の説教要旨「 同伴者と共にする伝道 」使徒言行録15章36節~16章5節 

使徒言行録第15章36節以下を読む。この箇所は、いわゆるパウロの第二回伝道旅行の発端を記している箇所である。36節、「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか 」。「 見て来よう 」と訳されている言葉は、原文では日本語の「 監督教会 」の語源となった言葉か使われている。パウロは1回目の伝道旅行でできた教会、そこにいる兄弟たちを見て来よう、何か問題があったら、それを正したり、相談に乗ってあげよう・・・単なる見物ではなく、監督として責任ある見方をして来ようと考えた。それが2回目の伝道旅行の目的であった。ところが、これから先を読んで行くと、パウロとバルナバが思い描いた通りに事は進まない。途中まではすでに伝道してできた教会を見ることができるのだが、途中から行く先を次々と禁じられ、ついには思ってもみなかったヨーロッパ大陸にまで足を伸ばすことになって行く。当初の目的から大きく外れて、ヨーロッパ大陸と言う新天地にまで福音を伝えることになるのである。使徒言行録は、伝道というのは自分たちの思い通りに行くようなものでない。むしろ、「 思いがけない 」ことの連続の中で、進んで行くものだと証言している。伝道は、自分がちゃんとした計画を立てて、思い通りに進めて行くというよりも、むしろ、「 神様がどんなことをなさるのか 」、その御心と御業に従うことが大切なのだ。パウロはそのように神様に対していつも心を開いていたので、思ってもみなかった福音をヨーロッパにまで伝える働きへと踏み込んで行くことができたのである。その伝道旅行の最初の姿がここに記されている。

しかしその働きは最初から順調なものではなかった。37節以下「 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した 」。マルコを巡って、バルナバとパウロの意見は激しく対立し、結果として2人は別々の行動を取ったというのである。聖書は、伝道する者たちの中でこのようにうまく行かなかったことがあったと正直に書く。それはいつでも、起こりうることだし、やむを得ないことであり、いつの時代の教会も、経験することであると告げるかのように。パウロに同行を拒否されたマルコは、その後どうなったのであろうか。テモテ第二の手紙には「  マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです 」(4章11節)というパウロの言葉がある。どのくらいの月日が流れていたのか分からないが、確かにマルコはパウロに認められる人間として、パウロから頼りにされる人間として成長したのである。これは神様の慰めの御業である。聖書の中に、「 彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない 」(マタイ12章15節)と証言されているが、神様はその通りのことをマルコにしてくださったのである。私たちに対する神様の御業も、それと同じであり、いつも神様はそのように私たちに関わっていてくださる!私は最近。そのように御業を体験した。

パウロはシラスと伝道旅行に出ることになったが、16章に入ってすぐにテモテという青年に出会い、このテモテを伝道のパートナーとして同行させる。テモテの人となりに関しては、テモテ第二の手紙に詳しい。彼は3代目の信仰者で若くして牧師となり、かなり苦労していたようである。パウロは彼を励まし、やがて自身の後継者と呼ぶまでに育てた。ここで心に留めることは、バルナバにしろ、パウロにしろ、最初の教会の伝道者たちはひとりで伝道しなかったということである。イエス様が既に福音書の中で弟子たちを「 2人ずつ 」にして派遣されているが、パウロたちもそのようにしたのである。伝道はひとりでするものではない。少なくとも、2人でするもの。そこにはとても深い教会の知恵がある。パウロは大変、優れた伝道者であったが、能力がある人だけにひとりで伝道することも出来たと思う。テモテのようにいささか気が弱い、お坊ちゃん育ちの者が一緒にいると、かえって足手まといであったかも知れない。しかしパウロはそういう彼らがいつも一緒にいてくれることを大切にした。そのことで、パウロ自身も独善的にならずに済んだと思う。有能な人間であればあるだけに、ひとりで教会の仕事を背負ってしまう。それだけの自負心をもって教会を支配してしまう危険がなかったわけでもない。それと戦うことができたのだ。皆で伝道した、これは私たちが忘れてはならないことである。ひとりでやる方がはるかに気楽か分からない。どんなに自由にやりたいようにできるか分からない。しかしそれを抑えなければならない。パウロはテモテを同伴者として同行させるに当たって、彼に割礼を受けさせた。このことは一見、エルサレム会議の決定に反する行為のようにも見えるが、そうではない。同じ血筋に生きるユダヤ人をパウロが愛したように、テモテにもユダヤ人とひとつになって欲しかった。割礼を受けタユダヤ人と共に行きながら、人々に福音を宣べ伝えて欲しかった。そこでも、自分の同伴者であることを求めたのである。 (2014年7月3日)