2014年7月6日日曜日


先週の説教要旨 「 神教会の道を示すもの 」 使徒言行録15章22節~35節 

今朝の箇所は、エルサレムにおける教会会議の決定を各教会に伝えている箇所である。あまりたいしたことは書かれていないという人もいるが、そんなことはない。 大切な会議で決めたことを教会員が、各地に散っているひとつひとつの教会がこれを受け入れて、「 これは自分たちの決定だ 」として、その後、それを大切にして行くことができるかどうか、それが出来るようにするために、なお、教会がしなければならないことがあるのではないか。そういうことを学べる箇所である。教会に限らず、どの団体でも会議によって、その団体の意志決定を行なう。しかしその会議にすべての会員が参加するわけではない。そうした場合、会議に参加しなかった人たちが「 私はあの会議には参加していないし、どうせ、上の人たちが決めたことでしょ。私には関係ないわ 」ということでは、困ってしまうのである。皆が、「 我々の代表がそう決めたなら、これは我々の決定として、大切にして行こう 」と、ひとつの心にならなければ、その団体はうまく行かなくなる。そうなるために、会議に出席した者たちは大変、丁寧な心配りをしていることがわかる。
 会議の決定を手紙に記して持って行くのであるが、ただ手紙を渡して、これをよく読んでくださいというのではなく、ちゃんと代表者としてユダとシラスを派遣し、説明をするようにしている。しかもこの人選が素晴らしい。当時の教会には、ヘブライ語を話す生粋のユダヤ人と、どちらかと言うと異邦人寄りの、ギリシャ語を話すユダヤ人とがいた。この2つのグループは日々の配給のことでも対立した過去がある(6章)。今回のエルサレム会議も、簡単に言ってしまえば、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの対立から必要となった会議なのである。生粋のユダヤ人クリスチャンは、主の恵みだけでなく、割礼や律法も守らなければ救われないと主張した。異邦人クリスチャンはそれに反対であった。結果として、異邦人クリスチャンの主張が受け入れられ、両者は仲直りをして、ひとつのところに立った。ユダとシラスはその2つのグループ、それぞれに属する人で、言わば、仲直りの生き証人として、2人が遣わされたのである。実に丁寧に、配慮がなされている。
その結果、手紙を受け取ったアンティオケアの教会の人たちは、その決定を読み、励ましを受けた。さらに2人からの御言葉に基づく説明を受け、励ましに励ましを増し加えられたのである(31節~32節)。ここで「 励ます 」と訳されている言葉は「 慰める 」とも訳される言葉である。彼らは慰めと励ましにあふれ、そして喜んだのである。そして会議に出席した人たちとひとつの心になれた。共にひとつの教会を共に造り上げて行こうという思いにまとまったのである。
 本来、教会の会議の決定というのは、「 慰めと励まし 」を与えるものであるはず。なぜなら、教会の会議は神の御心がその決定となることを求めるものである。人間のこうしたいという思いが会議の決定となるのではない。神の御心が会議の決定となるならば、それは必ず慰めと励ましに満ちたものとなるはずである。神が与えようとしておられる、その慰め、励ましを、相手に届くように心を尽くして、その決定の伝達を考える。そのことも会議の中には含まれるのである。
 この箇所を読み返しながら、こんなことを考えさせられた。ユダとシラスは、エルサレム会議の決定を記した手紙を携えて、アンティオキアへと向かった。私たちの人生もユダとシラスのような役目を担っている人生ではないのか・・・。私たちは天井の神の会議の決定、御心が記された手紙を携えて、それをこの地に住む人々に伝える役目を担っている。そのとき、私たちが携える手紙とは言うまでもなく、「 聖書 」だ。聖書には、神様の私たち人間に対する思いがギッシリと込められている。私たちへの御心が記されている。これを手にして読む人たちが慰めと励ましを受け、喜びにあふれる・・・そういう手紙を私たちは預けられているのだ。そしてそれをどのように、届けるか、そこにできるがきりの心と、思いと、力を尽くすのである。天井における神の会議の決定事項は、何よりも、「 神はご自分の独り子の命を惜しまずに与えるほどに、私たち人間を愛し、その愛を惜しみなく、注ぎ込む 」という決定である(ヨハネ3章16節)。
 私は、今回、成瀬教会の人たちが本当に、わたしたち家族に神の思いを伝えるユダとシラスになってくださったと感謝をしている。成瀬教会の人たちが、病室で苦しむ我が子と私たち家族に、天井の会議の決定、神の御心を祈りの花束という、見える形にして私たちに届けてくださった。ただ、祈っているという言葉だけでなく、祈りをたくさんの寄せ書きという形にして。息子はそれを見て、皆さんの祈りを実感した。私たち家族は、それを見て、励まされ、慰められた。今回、母親の愛と父親の愛の形の違いということを深く感じた。妻は、痛みに苦しむ我が子の痛みを素孤児手も理解したい、今後、二度と頭痛薬を飲まないと言った。母親の愛の形だと思う。しかし、神様の愛は母親の愛の比ではない。それとは比べものにならないほど、深く、広く、高い。そして皆さんはその愛を息子に知らせてくださったのである。心からの感謝にあふれている。そしてこれからも、いろいろな人のユダとシルワノになってくださることであろうと私は確信する。
                                             (2014年6月29日)