2014年7月14日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月14日~7月20日

7月14日(月) コロサイの信徒への手紙 1章24節~29節(Ⅰ)
 自分の苦しみを他人に告げることは容易なことではありません。時には、それによって誤解を受け、関係がおかしくなることもあります。しかし、パウロはコロサイの人たちのための自分の苦しみを告げます(24節)。しかも、「 苦しみを喜びとする 」とまで言っています。苦しみの中に喜びはありません。苦しみを喜びと言えるのは、苦しみの先にある喜びを確信し、今、自分が何のために苦しんでいるのかをしっかりと見つめることができているからです。パウロは、コロサイの人たちに恩着せがましいことを言っているのではなく、苦しみの先にある喜びにおいて、コロサイの人たちと結びつこうとしているのです。教会に仕えるとは、こう言う事であろうかと思わされます。 

7月15日(火) コロサイの信徒への手紙 1章24節~29節(Ⅱ)
 この部分は、伝道者パウロがコロサイの教会に自己紹介をしている箇所です。パウロは、自分を「 み言葉をあなたがたに余すところなく伝える務め 」(25節)を負う者と、紹介します。考えてみれば、神の言葉を人間が語るというのは、大変難しいことです。ですから中々み言葉を伝えられないもどかしさ、悩み、苦しみが生じるのは、当然かも知れません。それをパウロは、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たすことと見ているのです(24節)。私たちが毎週の礼拝で、人間である牧師の語る説教を神の言葉として聴き続ける事も、同様にキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たすことになるのです。それは信仰が必要です。

7月16日(水) コロサイの信徒への手紙 2章1節~5節
 パウロは、教会の人たちのためにどれほど労苦して闘っているか、分かってほしい(1節)と訴えます。パウロのその闘いの目的は2節です。「 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです 」。キリストが分かるための闘いです。教会は、キリストが分からなくなるような巧みな議論に惑わされていたのです(4節)。伝道者が教会で最も大事にする働きは、キリストのことを語る働きです。キリストをもっとよく知ることによって、もっと豊かにされるということをお互いの喜びとすることができるような教会の交わりを造ることなのです(2節)。

7月17日(木) コロサイの信徒への手紙 2章6節~10節
 8節に「 人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事 」とあります。当時の哲学者たちは悩みの中にある人々に、人生とはこういうものだと説いて、人々を迷いから解放しようとしました。しかし、それらの教えは人間を起源とするものです。今日でも同じような人間を起源とした「 言い伝え 」があります。これを飲むと健康になるとか、人生に思い悩む若者に近づく新興宗教とか。それらは人間に根差し、伝道者の語る神に根差す福音ではありません。これらの問題の背後にあるのは、何が私たちを生かし、支配しているかという問いです。「 キリストの内に満ち溢れる神性が余すところなく見える形をとって宿って 」います(9節)。人に起源を持つ言葉ではなく、真の神キリストの言葉に根差して生きよう(7節)。

7月18日(金) コロサイの信徒への手紙 2章11節~15節
  「 あなたがたは・・・キリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ・・・ 」(11節~12節)。割礼は神に選ばれた民、イスラエルに属することを見える形でいつも覚えているために受けたものです。割礼は神の民に生きる者のしるしでした。新約では、割礼に変わって洗礼というものが行われています。私たちの教会では、洗礼を洗礼入会と言っています。洗礼を受けるとは、教会の仲間になる、キリストのからだに加わるという意味があることをいつも明確にしておきたいからです。6節にキリストを受け入れ、キリストに結ばれた、とあります。主を受け入れた、そこで起きるのは洗礼です。洗礼を受けて教会の仲間になる。そこにおいて、キリストに結ばれて歩くという信仰の生活が具体的に始まるのです。

7月19日(土) コロサイの信徒への手紙 2章16節~19節
 「 この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです 」(19節)。体全体と言われているように、ここでは一人の人間のことを言っているのではありません。教会のことです。私たちは、洗礼を受け、教会の仲間入りをし、他の仲間と結び合わされ、他の仲間といっしょにキリストの体を造っていきます。そこでは、誰も一人で成長することはありません。誰も一人で神に育てられるということはないのです。誰もが頭なるキリストに結び付いていくことで、共に成長するのです。教会は、仲間といっしょに神に育てられ、共に成長するという喜びを知る場なのです。

7月20日(日) コロサイの信徒への手紙 2章20節~23節
 「 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、・・・縛られているのですか 」(20節~21節)。死ぬということは、これまで様々なかかわりで結びついていたものと無関係になることです。キリストと共に死んだ者は、キリストに対抗する様々な諸霊と関係がなくなるのです。占い、除霊、たたり、これらのものはキリストに対抗する諸霊のなせる業です。難行、苦行のたぐいも極めてこの世的な知恵によるものであり、キリストと共に世に対して死んだ(ガラテヤ6章14節)私たちとは関係のないもので、私たちは、そのような支配からは解放されています。