2014年7月20日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月21日~7月28日

7月21日(月) コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節
 あなたの命はどこにあるのでしょうか?私の命は、私の内にある。そう言うことも許されるでしょう。しかし、それよりももっと大事なことは、私たちの命は神の内にある。神の内にあって私たちは生きていると言うことです。私たちの命はキリストです。キリストのあるところに私たちの命はあります(3節)。この命は隠されたままではなく、キリストの現れのときに、間違いなく現れます(4節)。ここに私たちの将来の姿があり、私たちは栄光の中に自分を見ることができるのです。それを見ることが私たちの地上の生涯を支える望みなのです。困難の故に、他の何が見えなくなっても、このキリストにおいて与えられている命の恵みを見、信じて生きる。すべてはそこにかかっていることをよくわきまえられるようになりましょう。

7月22日(火) コロサイの信徒への手紙 3章5節~11節
 五体満足という言葉にみられるように、人間のからだも心も5つの部分からなると考えられていました。ここでは5つの不徳をあげて心の問題が語られています(5節)。5つの不徳の中核にあるのは貪欲です。8節では、貪欲が少し別の言葉でとらえ直されています。貪欲はただ神に向かって偶像礼拝の罪を犯すことにとどまらず、共に生きる隣人に対して大きな過ちとなってあらわれるのです。あなたたちは、造り主に倣う、真の神に似た人間として生きるようにされていると語るパウロ。それに反する歩みは、自分自身を偽ることでしかない。自己吟味を要する言葉です。

7月23日(水) コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節(Ⅰ)
 ここはキリスト者の肖像画のような箇所だと思います。赦し合うこと、忍び合うことが呼びかけられています。つまり、心がキリストの恵みによって聖められている人間(12節)は、耐えることができるのです。相手をののしるのではなく、耐えて、赦しながらいっしょに生きていくことができるようになるのです。それがキリスト者の肖像です。でも、自分はそれに程遠いと思うかも知れません。しかし神の恵みによって、あなたもそうなれると言うのが聖書の約束です。自分の心がキリストの平和に支配されるようにすることです(15節)。言いかえると、キリストの言葉を自分の内に豊かに宿るようにするのです(16節)。日々、キリストの言葉に触れられていると、次第にキリストの言葉が内に宿り始めます。

7月24日(木) コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節(Ⅱ)
 「 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい 」(16節)。神をほめたたえる賛美、ここでは賛美の心がどのような心であるかを教えてくれます。ほめ歌を歌うことと互いに教え、諭し合うことが切り離されていません。キリストの言葉が私たちに宿るときには、どうしてもキリストの言葉で教え合わなければならなくなるし、諭し合わなければならなくなるのです。人の過ちを上手に指摘し、教え合う、そのようなことは歌を歌う心がないとできませんし、反対に歌う心は互いに教え、諭し合う心でもあるのです。ほめ歌を歌う心、それは一番深いところでは、神が与えてくださった私の人生を喜んでいる心です。教会は歌を歌わずにおれないような命を与えられている存在なのです。

7月25日(金) コロサイの信徒への手紙 3章18節~21節
 キリスト者の家庭について語っています。「 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい 」(18節)。妻は夫にいろいろな事を言うでしょう。その夫に向かって語る言葉が、夫に仕える言葉になっているか?そう問われています。夫の身の回りの世話をするときにも、それが主の名よってなされているか?夫が喜んで受け入れる妻の業が、すべて主イエスの名入りであるか?と言うのです。夫についても、子どもについても同じ事が問われています。妻がつらくなって、苦い言葉を語るならば、それは夫の責任です。子どもがいじける( 原語では、生きる情熱を失うの意 )のは親が満たされていないからです。そのような家族の歩みはどうしたら生まれてくるのか?親子、夫婦はとても近い間柄ですが、それ以上に主に近くあることです。主を信じる(18節)、主に喜ばれる(20節)とは近さを指します。

7月26日(土) コロサイの信徒への手紙 3章22節~4章1節
 主人に対する教えよりも、奴隷たちに対する教えの方が先に語られています。弱い者の立場に立つ聖書の思想からすれば、主人に対する教えが先に語られそうなものです。そうならないのは、なぜでしょうか?奴隷たちの方が主イエスに近い生活をしていたからです。奴隷たちの方が主イエスと同じように仕えるということを真剣にしないと生きていけないところに置かれていたからです。パウロは奴隷だけでなく、主人に対しても語っています。奴隷も主人も皆、天に本当の主人がおられる。その主人は彼らを等しく取り扱ってくださる。その確信にどれだけしっかりと立つことができるか?それが主人の生活、奴隷の生活を作る基礎になるのです。

7月27日(日) コロサイの信徒への手紙 4章2節~6節
 「 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、・・・彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています 」(12節)。これはエパフラスだけの願いではなく、パウロの願いでもありました。「 完全な者 」と言うのは、自分に自信を持っていると言うのではなく、自分たちにかかわる神の御心が完全であると確信し、それにすっかり信頼し切っていると言うことです。伝道者、牧師が教会の人たちに対して抱く祈りは、神の御心の完全さを信頼して生きるところにおいて「 全き者 」となってほしいと言うことです。そのために、自らも祈る人になってもらうことです。