2014年7月27日日曜日


先週の説教要旨「 伝道する神 」使徒言行録16章6節~15節 

 この箇所に新共同訳聖書は「 マケドニア人の幻 」というタイトルをつけている。幻、英語の聖書ではビジョンとなっている。幻、ビジョンと言う言葉は、会社経営やスポーツなど、あらゆる分野でもよく耳にするようになった。ビジョンは、将来の構想、将来の展望、将来図などと訳される。会社経営には将来構想が必要不可欠で、そういうものを持たない企業は長くは続かないと言われる。サッカーでも、どういうチームを作るのか、その将来図に見合った監督を選ぶことからチーム作りはスタートする。ひとりひとりの人生においても、ビジョンが必要。将来への展望を持たないままで、ただ毎日を何となく流れにまかせて生きていると、それは決して実り多い人生を造らない。実り多き人生を生きた人は、皆、それに見合う大きなビジョンを持っていた人ばかりである。今朝合わせて読んだ箴言29章18節は「 幻がなければ民は堕落する 」と教えている。ビジョンがなければ、民は堕落する。しっかりとしたビジョンを持って生きることが、人を堕落から防ぎ、実りある健やかな人生を造ると聖書は教えている。そうであるならば、いかなるビジョンを持てばよいのか。自分の思いつく限りの夢をあげみて、その中からどれかひとつを選んで、「 これを私のビジョンとしよう 」と言えば良いのか。そうではない。「 幻がなければ民は堕落する 」というこの言葉は、口語訳聖書では「 預言がなければ民はわがままにふるまう 」となっていた。預言は、神様から預けられている言葉。つまり、ここで言うビジョンは、自分の願いが作り出すようなものではなくて、神様から与えられるものでなければならないということ。そういうビジョンに生きることこそが、あなたを堕落から守り、健やかに生かすのだと言うのである。今朝の箇所は、そういうビジョンを、神様がパウロたち、すなわち教会に与えられたことを告げている。教会もまた、神様からビジョンを与えられるのでなければ、堕落から身を守り、健やかに歩むことができなくなるのである。そうしたときに、一体どんなビジョンを神様から与えられたのかが重要になってくる。そしてそのビジョンを私たちの教会も共有しているのかが、今朝、私たちは問いかけられているのだと思う。

パウロたちに与えられた幻は、一人のマケドニア人が立って、「 マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください 」と言ってパウロに願うというものであった(9節)。つまり、伝道の対象である人々の苦しむ姿を幻として見させられたのである。これは今日の教会には欠けている幻ではないだろうか。「 ビジョンのない民は堕落してしまう。教会もビジョンが必要だ 」、そう言ってビジョンを掲げて歩もうとする教会の多くは、「 10年後には、私たちはこういう建物を建てて、これだけの人たちが集まる、そういう教会にするんだ 」と言うような、いわば自分自身に対するビジョンを掲げるのである。隣人の苦しむ姿をいつも見るべきビジョンとしている教会は一体どれだけあるだろうか。自分自身に対するビジョン以上に見るべき大切なビジョンがあるのだ。考えてみると、使徒言行録に記された教会は、確かに神様からのビジョンによって導かれているが、そのビジョンは教会自身に対するビジョンではなく、伝道対象である人たちの苦しむ姿の幻と、救いにおいて人を分け隔てしない神のお姿を見せる幻(10章でペトロが見たもの)なのである。そしてこの2つのビジョンさえ、しっかりと見続けていれば、あえて教会自身のビジョンを描かなくても、伝道に健やかに生きる教会は形成されていくのである。

 ここではパウロたちは、伝道の対象である人たちの苦しむ姿を幻として見せられた。しかし私たちが見ている実際の隣人の姿は、福音の助けを求めて苦しむよりもむしろ福音など全く必要としていない姿なのではないだろうか。信仰?私には関係ないよ・・・と言って、信仰の話に耳を傾けることもない。そういう隣人の姿ばかりを見ていると、伝道への意欲は萎えてしまう。しかし神様はそごこそ、福音を必要として苦しむ隣人の姿をビジョンとして思い描け、それを持てと言われるのである。神様の目には、福音を必要とし、助けを求めて叫んでいる人間の本当の姿、本人もそのことに気がついていないような本当の姿が映っている。神様はその本当の姿を私たちにビジョンとしてお見せになるのである。

 人間の本当の姿を神様は見ておられることと関連するのだが、先日、あるコラムを読んでいて日本は今、国全体が記憶喪失になっているという刺激的な言葉に出会った。過去の歴史から学ばない者は、今を豊かに生きることかできない。日本人の多くは戦国時代やそれ以前の日本の歴史をよく知っていても、近代、現代の歴史は学校できちんと学んでいない。明治維新までようやくたどりついたら、それで時間切れになってしまうのである。大切な部分の記憶がない中で、果たして今をよりよく生きるための決断ができるのか、という問いかけであった。これを読みながら思った。神様は今、人類全体が記憶喪失になっていると見ておられるのではないか。神様によって命を与えられ、生きるものとなった人間なのに、その記憶を失い、まるで自分ひとりの力でこの世に生まれ、生きているのだと思い違いをしている。神様は教会にそういう人間の本当の姿をいつも見せてくださりながら、自らが先頭に立つ伝道の働きに参加するよう、教会を導いておられる。
                                           (2014年7月20日)