2014年6月29日日曜日



成瀬教会 <聖書日課>  6月30日~7月6日

6月30日(月) テモテの手紙Ⅱ 2章1節~7節
 「 あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい 」(1節)。キリスト・イエスの恵みによって生きる者の強さ、それは2節です。パウロから「 聞いた福音を忠実な人たちに委ねよ 」と、テモテに命じています。自分の大切な務めを他の人に委ねるというのは、勇気や強さが必要です。キリストの恵みによって強くされ、すべてのものを生かしていてくださるキリストへの信頼を深めていただかないと、他者に委ねることはできません。主の恵みによって強くされましょう。

7月1日(火) テモテの手紙Ⅱ 2章8節~13節
 11節~13節は、キリスト賛歌です。パウロがこの手紙を書いた時、彼は牢獄の中にいました。獄中でこのような賛歌を歌ったのです。「 キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる 」(13節~14節)。前半からのつながりからすると、わたしたちが誠実でなければ、キリストもわたしたちに誠実であられない、となるのが自然です。しかし、後半は歌の流れが変わってしまっています。なぜでしょう。キリストの愛が勝ったからです。主の愛が私たちの不誠実に勝ったから歌が変わってしまったのです。私たちの側の条件によらず、私たちへのキリストの愛はいつも真実です。

7月2日(水) テモテの手紙Ⅱ 2章14節~26節
 私がまだ青年の頃、「 わたしに向かって、『 主よ、主よ 』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである 」(マタイ7章21節)の御言葉に、自分は口先だけの信者だと思って不安を感じて、当時神学生であった松本牧師( 高座教会 )を訪ねた時、先生はⅡテモテ2章19節、「 主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである 」との御言葉を引用して、御心を行うことを大きく考え過ぎない方が良い。神の愛に応えて、自らを清めていくこと(21節)も御心であるから、心を込めて主の愛に応えて生きれば、それで良いのだと教えくださいました。主の愛に応え、自分にできる精一杯のことをする。それは信仰の自然な姿です。

7月3日(木) テモテの手紙Ⅱ 3章1節~9節
 「 彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です 」(9節)。「 精神 」と訳された言葉には、「 知識 」とか「 知性 」という意味もあります。「 知性が腐る 」とは、正しい信仰の理解から逸脱することです。「 知解を求める信仰 」という言葉がありますが、信仰にはふさわしい知識があり、その知識にしたがって物を考え、判断していく理性的な働きがあります。それをなおざりにすることはできません。信仰は、まず信じるということが先ですが、盲目的によく分からないままに信じているところから、自分は何を信じているのかを知性においても、理解を深めていくものなのです。真理を知ることに熱心で、快楽を愛するよりも、神を愛することを喜ぶ者(4節)でありたいと願います。

7月4日(金) テモテの手紙Ⅱ 3章10節~17節
 「 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながらますます悪くなっていきます 」(13節~16節 )。「 悪くなっていく 」という言葉は、「 悪へと前進する 」と言う意味の言葉です。前進と言う言葉は、普通は良い意味の言葉ですが、ここでは進めば進むほど、悪に落ちるのです。私たちは、進歩の名で悪に誘う誘惑に囲まれています。しかし、私たちには聖書の言葉があります。聖書には知恵が満ちています。救いに向かって全身する知恵です(15節)。聖書と共に歩む時、必ず救いへの前進があります。聖書は、誤りを犯しやすい私たちを訓練し、守ります。だから聖書を日々読みましょう。

7月5日(土) テモテの手紙Ⅱ 4章1節~5節
  「 神の御前で、そして・・キリスト・イエスの御前で、厳かに命じます 」(1節)。神の御前にあることの厳かさを忘れてはなりません。ある牧師の神学生時代の体験です。説教演習の授業の後、教授に呼ばれてこう言われました。「 説教の時に、万年筆を胸に着けてはいけない。光る物はすべた駄目だ。本当は金歯もいけない 」。教授は厳かにそう言われたそうです。神のみが輝くべきであって、それ以外のもの、すなわち説教者が自分を輝かすべきではないと言うことでしょう。神の御前にある事の厳かさを思わせるエピソードです。私たちは皆、神の御前に生きています。そこで生まれる厳かな思いに生きることは、神のみが輝かれることを願い求める心とひとつです。それは自分の好みではなく、神の言われる事を聴こうとする説教聴聞の姿勢にも結びつくものです(3節~4節)。

7月6日(日) テモテの手紙Ⅱ 4章6節~8節
 パウロは自分の死を間近に見据えています(6節)。しかし、この時だけでなく、パウロはいつも死を意識していました。キリスト者の生活は、いつも死を意識した生活です。「 人は生きて来たようにしか死ねない 」と言われますが、反対に死を意識していない者は本当の意味では生きられないとも言えるでしょう。パウロは自分の死の時を、キリストから義の栄冠を受ける時と理解していました(8節)。私たちの愛してやまない主が、ゴールでご褒美を用意して待ち構えていてくださる。これはパウロだけではなく、主を信頼して人生を走り抜く私たち、すべてのものに当てはまることなのです(8節)。終わりから人生を見ているのがキリスト者なのです。