2014年6月16日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月16日~6月22日

6月16日(月) テモテの手紙Ⅰ 3章8節~13節
  「 奉仕者の資格 」という見出しがついていますが、この奉仕者というのは教会の執事という役割のことを指していると考えられます( この前のところの監督というのは長老のことです )。「 清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません 」(9節)とあります。福音の真理が良心の中に根を下ろしていないといけない。教会の役員選びの基準は、世が人を選ぶときの基準とは明らかに違うのです。社会の中で認められる働きをしているとかの理由で教会の役員は選ばれない。なぜなら教会は神の真理に根差してこそ、生き得る共同体だからです。そのことをわきまえていることが役員として選ばれる必須の条件なのです。

6月17日(火) テモテの手紙Ⅰ 3章14節~16節
 パウロはテモテのところを訪問する予定にしていたようですが(14節)、もし行くのが遅れたとしても(15節)、テモテがうろたえないようにと願っています。「 神の家でどのように生活すべきか? 」(15節)、そのひとつのことを知っていれば大丈夫だとパウロは言います。神の家での生活、その急所は16節で語られている「 キリストの勝利の栄光、キリストよるご支配 」を仰ぎ続けることです。神の家である教会では、すでにキリストの勝利の支配が始まっています。動揺せずに勝利の主が何をなさろうとしておられるのかを見ようという余裕を持っていいのです。

6月18日(水) テモテの手紙Ⅰ 4章1節~5節
 終わりの日に信仰から脱落する人が出ます(1節)。そういう人は、妙に戒律的になります。結婚を禁じたり、ある種の食物を断てと命じたり(2節~3節)。創世記に、神は造られたものひとつひとつをご覧になられ、それを良いと言われたとあります。すべては神の良き御心に根差し、良いものなのです(3節~4節)。感謝して食べるというのは、神にありがとうございますと言って食べるだけではなく、神に感謝するような関わりに生きるようになると言うことです。神に感謝する関わりに生き始めるとき、私たちが頂くすべてのもの、食べ物も伴侶も、すべて良いもの、いや聖なるものとさえ、されるのです(5節)。そのようにすべてを感謝して見ていく中で、神の言葉と祈り(5節)は、実に大きな働きをしてくれます。

6月19日(木) テモテの手紙Ⅰ 4章6節~10節
 7節、「 信心のために自分を鍛えなさい 」とパウロは勧めます。信仰を鍛えるというのは、今日のキリスト者にあまり受け入れられない事かも知れません。なぜなら、鍛錬という人間の精進によって成長しようとする律法主義的要素をそこに見出そうとするからかも知れません。しかし、神の恵みに支えられての信仰の精進は聖書の求めるところであり、決して律法主義的なものではありません。信仰を鍛えるとは、存在(自分の生き方)と信仰がひとつになるように訓練していくことです。パウロは伝道者テモテにそのような鍛錬を求め、信じる人々の望みである生ける神を証しする立派な奉仕者となるよう勧めています。

6月20日(金) テモテの手紙Ⅰ 4章11節~16節
 御言葉を語る伝道者を教会はどのように迎えているか?それが教会の人々の救いに決定的なことになります(16節)。テモテは、若い牧師であったために、教会の年配の人々に軽んじられていたのかも知れません。あの若造の言葉など聴けるかと。牧師という務めは、一面において人生の円熟を求められる務めですが、だからと言って若い者は牧師になるな!とはならないのです。若かろうが老練であろうが、伝道者は決して軽んじられてはならない、人々の救いを左右するような言葉を語るのだからとパウロは言います。パウロは、そのような立場にあることをテモテに自覚させ、かつ自らも進歩していくことを求めます(15節)。語る者も聴く者も、神の言葉が語られ、聴かれる事のために、最大限の信仰を働かせましょう。

6月21日(土) テモテの手紙Ⅰ 5章1節~2節

老人、若い男女、パウロは教会内の人たちに牧師としてどのように接したら良いかをテモテに指導しています。老人の一つの問題は、体力の衰えとともに、もうろくし、つまらない間違いをしたり、自分の心を自分でコントロールできなくなったりすることでしょう。そういう老人を叱ってはいけない。なぜなら、そのことで一番悲しい思いをしているのは当の老人だからです。若い時には何でもなかったことが、出来なくなり、うろたえている老人を叱るのではなく、慰めて勇気を与えるのです。1節の「 諭す 」は、「 慰める 」とも訳せる言葉です。これは教会内の人間関係すべてにあてはまることであり、心すべきことですね。

6月22日(日) テモテの手紙Ⅰ 5章3節~16節(Ⅰ)
 やもめの中にもいろんな人がいて、財産があり放縦な生活をするやもめもいれば、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けるやもめもいたようです(5節~6節)。年を取って独りぼっちの生活の中で、ブツブツとぼやくばかりになる人がいます。「 昔は良かった。元気だったし、家族も自分を大切にしてくれた。でも、今となっては私に先の望みなどない 」と。時には「 生きていてもしょうがない、早く死にたい 」とさえ言う人もいます。しかし神に望みを置く者は、「 神様だけが望みであって、もうこの世に生きていても何の望みもない 」とは、ならないのです。神にこそ将来があると知っている人間は、他に何もすることができなくなっても願いと祈りに生きます。もちろん、自分ひとりのためだけでなく他者のためにも祈るのです。