2014年6月16日月曜日


先週の説教要旨 「 信仰の戦い 」 使徒言行録14章21節~28節 

 今朝、このペンテコステの礼拝で共に読む箇所は、先週の続きで使徒言行録14章21節以下のところである。ペンテコステだからということで、特別に聖霊について語っている箇所を選んで説教することはしない。なぜかと言う、使徒言行録はその名前の通り、使徒たちの言葉と行いの記録であるが、かつて使徒行伝と言ったこの書は別名、聖霊行伝とも言われる。この書物の本当の主役は使徒たちのようでありながら、実は使徒たちの背後にあって、使徒たちを導き続けた聖霊が主役なのである。だから使徒言行録のどこを開いても、そこには聖霊の働きが記されていると言える。私たちは今朝の箇所からも、その聖霊の働きを知ることができ、その聖霊が私たちにも同じように働かれていることを心に刻みたいと思うのである。

  パウロたちは、第1回目の伝道の働きを終え、出発地であるシリア州のアンティオキアの教会に戻って来た。聖書の巻末の地図を見ると、そのときのパウロたちの道のりを辿ることができる。アンティオキアを出発し、キプロス(同伴者バルナバの故郷)を経て、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベ、そこでクルッと向きを変えて、引き返して、ほぼ、もと来た道を辿って、アンティオキアに戻っているのが分かる。デルベの少し先、東にはパウロの故郷タルソスがあるが、そこには行かずに引き返している。伝道者は、結構、自分の生まれ育った故郷に伝道してみたいと思っているもので、そういうことからすると、バルナバの故郷には立ち寄りながら、なぜパウロの故郷には・・・と思う。それは、故郷を訪ねること以上に、今回の働きで生まれた教会、信徒たちを励ますことの方が大切だったからだ。生まれたばかりの小さな教会。しかもパウロたちはその町を迫害によって逃げ出さなければならなかった。言葉は不適切だが、敵地に味方を置いて来ているようなもの。彼らをほっておけなかったのである。

21節、22節、「 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、『 わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない 』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました 」。ここで「 励ます 」と訳されている言葉は、慰めるとか、勧告するとか、弁護するという具合にいろいろな言葉に訳される言葉で、聖書の中では特に、聖霊の働きを表現するときに好んで用いられる言葉なのである。つまり、聖霊の働きの特質は何よりも、「 励ますこと 」であり、「 慰めること 」なのだ。この言葉は、原文のギリシャ語では「 そばに呼ぶ 」という意味の言葉である。そばに呼んでどうするのか。あなたが落ち込んでいるときに、そばに呼んで「 どうしたの 」と、話を聞いて慰めてくれる。あなたが迷っているときに、そばに立って「 こうしたらどう 」って、勧めの言葉を語ってくれる。時には、何も語らず、無言のまま、その傍らにジーッと居続けてくれるということもある。それが「 励ます 」と訳されている言葉の持つ意味であり、聖霊が私たちに対してしてくださることなのである。ここではパウロたちの背後にあって、聖霊がパウロたちを通して働いておられるのであり、まさに聖霊行伝なのである。

それでは、このときの励ましとは具体的にはどういうものであったのか。それは「 希望を持ち続けよう 」という励ましであった。私たちは多くの苦しみを経て前に進む。それは避けられない。しかしその先には、神の国に入るという輝かしい喜びが待ち受けている。それが私たち信仰者の希望です・・・・。その希望を持ち続けよう、というのである。神の国というのは、神の支配のことで、神はご自分がなさろうと思われることを全てその通りに実現なさるときが来る。それは私たちに災いをもたらすものではなく、幸いをもたらすもの。それが私たちの希望。その希望にしっかりと踏みとどまって生きようと、聖霊はパウロたちを通して励ました。信仰に生きることは、戦いの連続だ。信仰と希望と愛によって生きようとする戦い。望みえないときに、なお望みを持ち続け戦い。聖霊は、そのために、私たちを助けてくださるのだ。今朝はエレミヤ書32章の言葉も読んだが、エレミヤはよく涙の預言者と呼ばれるが、希望の預言者でもある。彼はイスラエルがバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚とされてしまうことを預言した。だが、王や民は信じなかった。国の滅亡、それだけなら涙の預言者と呼ぶのはふさわしいが、彼は70年後に神が捕囚から民を解放してくださり、民がユダヤの地に帰還することをも預言した。涙の先の希望をも見ていたのである。そのことの証として、彼は捕囚以前にユダヤの土地を購入する。神がなさろうとしておられることは必ずその通りになると信じ、それを希望とし、その希望に投資したのである。その意味ではエレミヤは、私たちに先立って聖霊の励ましを受けていた人物と言うことができる。迫害、破壊、そういうものばかりを見ていると落ち込んで来る。しかし破壊されたことのゆえに見えてくるものがある。破壊されたがゆえに、考えるべき将来が、本当に考えるべきものが何であったかが見えてくることがある。聖霊はそのようにして私たちを導いて行かれる。聖霊は破壊や困難の中において、私たちに本当に目指すべきものを見せてくださる。それを希望としてとらえ、それに賭けよう。 (2014年6月8日)