2014年6月24日火曜日


先週の説教要旨 「 神の配慮を重んじ 」 使徒言行録15章1節~21節 

15章は、教会の歴史において最初に行なわれた教会全体の会議の記録である。緊急に論じなければならない議題が生じたのである。「 ある人々がユダヤから下って来て、『 モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない 』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった 」(1節、2節)。議論の要点は、人が救われるためにはイエス・キリストの恵みによってのみでよいのか、それともそれだけでは不十分でイエス・キリストの恵み+律法の遵守&割礼なのか、であった。キリストの恵みだけでは不十分と考える代表格はファリサイ人から信者になった人たちであって、幼いときから積み重ねられてきた信仰の生き方に重ねて、キリストを信じたのであった。彼らは自分たちがユダヤ人として生まれ、大切にして来た律法を守る生活や割礼の儀式は、決して無駄ではないと思っていて、異邦人のキリスト者たちにもそれを守るように要求したのである。それに対して、ペトロが意見を述べる。彼の主張は2つ。ひとつは、割礼を受けることもなく、律法を守ってもいなかった異邦人を、「 神 」がそのまま受け入れられている(8節)という点。もうひとつは、ユダヤ人であるあなたがた自身は律法の求めを負い切ることができたのか、そうではないだろう。異邦人同様、キリストの恵みによって救われたのだ(7節~8節)という点。続いてパウロが語ったたが、その内容は記されていない。けれども、神はユダヤ以外の人々の間で律法も割礼も求めず、どのような恵みをもってこれらの人々を生かしたか、ということを語ったのであろう。最後にヤコブが答えている。ヤコブは自分の意見を述べているというよりも、あたかも裁判官のように、判決を述べている。もしかしたらヤコブが議長だったのかも知れない。ヤコブは旧約聖書、アモス書とイサヤ書の預言を引用しつつ、律法や割礼を受けていない異邦人が神の恵みによって救われるというのは、旧約の預言に一致すると語り(14節から17節)、結論として「 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません 」(19節)と宣言する。つまり、異邦人に新しく、割礼や律法の要求を付け加えてはいけない。キリストの恵みはそれだけで救いに十分なものなのであるということ。ただ、ユダヤ人たちへの配慮、心づかいとして、彼らが幼い頃から大切にして来た信仰上の習慣に関しては、ぜひ、理解し、協力していただきたいと言うのである(20節)。

さて、この会議では、人が救われるのはただ、キリストの恵みによるのであるという福音の決定的理解が確認された。そのことの意義は非常に大きい。それと合わせて、もうひとつ重要なことが示された。それは、教会における会議とはいかなるものであるかということである。この会議の様子を読んで、皆さんはこう思われたかも知れない。「 律法と割礼を重んじる人たちの意見はまったく記されていないではないか。最後に多数決さえ行なわれていないではないか。これでは民主的な会議とは言えないのではないか 」・・・。その通りである。民主的にやるというのは、民衆が支配する、民衆が権威を持っているということ。しかし教会の会議はそれとは根本的に異なるのである。教会がどのように意志決定をするかと言うと、神の御心が何にもまして重んじられ、神の意志こそが会議の決定となることを願い求める、それが教会の会議の姿勢なのである。神の言葉がそこで力を持つようになること。それが教会のすべての会議の意味するところ。御心が行なわれるように、それが会議の心なのである。「 私はこう思う、いや、私はこうだ 」という具合に、いろいろな意見があっていい。しかし、それはひとりひとりが「 私はこうしたい 」という意見ではなく、「 わたしは、神がこのように求めておられると思う 」という意見でなくてはならないのだ。教会の会議は民主主義ではなく、神主主義、神の御心こそが最後のものとならなければならい。この会議は、そのことを示した。ペトロにしろ、ヤコブにしろ、その意見が「 神はどのようになさったか 」あるいは「 聖書を通して、神はどのような御心を示しておられたか 」ということに集中しているのは、そのためである。私たちの行なうすべての会議もまた、御心が何であるかを問うのであって、御心が行なわれるようにとの祈り抜きにして教会の会議は成り立たない。

 この御心を重んじる姿勢は、教会の会議だけではなく、私たち信仰者ひとりひとりの生活をも貫く姿勢でもある。御心を重んじる、自分の思い、選択が最後のものにはならないのである。先週の木曜日の夜中、私の息子がくも膜下出血で入院した。容易ならない状況にあり、親として大変、つらい状況に立たされている。主の御心が何であるのか、私たちには時として分からなくなることがある。神の御心は神の愛に根差す、しかしその愛が深ければ深いほど、その意味はすぐには分からないのである。異邦人の救いも旧約の時代から預言されていたが、そのことが皆に理解されるまでには多くの時を必要としているではないか。だから今すぐには分からなくてもいい。ただ、神の御心は私たちにとって善きものなのである。今、この状況においても。私はそう信じるし、神の配慮を重んじたい。                                                       (2014年6月15日)