2014年6月29日日曜日


先週の説教要旨 「 年を重ねる恵み 」 イザヤ書46章1節~4節 

今朝は伝道礼拝と言うことで、「 年を重ねる恵み 」と題してお話をする。若い人がこういう話しをするのは嫌味なことだが、私もそろそろこういう話をしても大丈夫な域に入ったかなと思う。巨大化するアンチエイジング産業、アンチエイジングが目指すことは老化の時計の針を少し遅らせること。アメリカでは、この市場の売り上げが日本の国家予算の7%にもなっている。不景気にも全く影響されない、それほどのニーズがあると言う。老化のスピードをゆるめるとか、若さを保つとか、それ自体は悪くない。しかし注意すべきは、こういう産業は年を重ねることが病気であるかのように、悪であるかのように思い込ませて、商品を売っている点なのである。年を重ねることは、悪いことなのか?健康を保つこと、若さを保つことは素晴らしいと同時に、私たちはもうひとつのことを知らなければならない。私たちは皆いつか死ぬのだ。誰も自然の摂理に逆らうことはできない。ならばその摂理に逆らうよりも、むしろ年を重ねることの中にどういう神の恵みがあるのかを積極的に見出して、その人生の後半の最も素晴らしい時を美しく終えることを考えた方がいいのではないか。聖書は確かに年を取ることの厳しさを、目をそらさずに見ているところがあるが、同時に恵みをも見ている。そのことを3つ、お話したい。

年を重ねることの恵み、それは「 知恵 」が増し加わるチャンスだということ。知識と知恵は違う。あるいは技術と知恵も違う。年を重ねると、知識、技術に関しては若者には勝てるはずがない。デジタル化時代に若者は簡単に順応するが、私たちには辛い。だが、知識や技術では若い人たちに負けても、知恵においては年を重ねた人は負けない。知恵とは、知識や体験を動員して人生の舵取りをする力、総合力のことだ。しかし聖書の言う知恵は、それと同じようで少し違う。「 主を畏れることは知恵の初め 」(箴言1章7節)。年を重ねて生きてきた人は、様々な失敗や成功を体験してくる中で、どうも人生というのは、自分の力で切り開いて来たというよりも、何か別の誰かの力が働いていて、その力に導かれて来たのではないか、自分が人生を作ったというよりも、誰かの手がそこに添えられていたのだ、そういう実感を持っている。聖書は、その添えられた手というのは、実は神様の手なのだと言う。神様があなたの人生に手を添えて、あなたの人生を導いて来られていた。だから、もっとも確かな人生の舵取り、知恵というのは、その神様が私の人生の同伴者であることを認め、その方の導きをいただきながら歩むこと。それが聖書の知恵。年を重ねる恵みは、最良の人生の舵取りを知る絶好の機会なのである。

 2つ目の年を重ねる恵みは、自分の人生で最後に残るものは何かを見直すチャンスであると言うこと。年を重ねる不安というのは何かと言うと、段々、段々、神様にお返しすることが増えて行くということだ。体力とか、能力とか・・・。そのときに私たちは、それでは自分の人生で残るものは何だろうか?と考えざるを得ない。
  最後まで残るものは何かというと、神様に愛されているという、神様との関係しか残らないのだ。 「 老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください 」(詩編71編9節、)。年を重ねると、いろいろなものを手放すことから、自分が周りから見捨てられてしまったような思いになりやすい。この詩編の祈りは、高齢者の共感を呼び起こす。神は年を取ったら捨てるのか、この祈りに対する答えは「  あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」(イザヤ書46章3節、4節、)である。神様はあなたが白髪頭になっても、あなたを背負うと言われる。この関係だけが最後に残るのだ。私たちには・・・。そして、この関係にこそ、望みを持っているということが信仰なのである。ベテスダ奉仕女のシスターたちは、引退後の生活を、キリストの花嫁となる婚礼前夜と呼んで、期待に胸を膨らませて過ごす。主は、最後まで私たちを背負い、ご自身の花嫁のように愛してくださる。

 年を重ねることの恵みの3番目、それは復活の信仰を確認するチャンスであるということ。年を重ねることの不安は、いろいろなものを神に返して行くことと、それともうひとつ、「 死への恐怖 」である。週報にも書いてあるが、私、今、ひとり息子がくも膜下出血で、鎌倉の病院に入院している。救急病院に運ばれ、助かってくれと祈りつつ、そこで待っているとき、「 この感覚って、これが最後じゃないんだ。今回、息子が助かっても、いつか必ず、最低もう一回は、こういう時が来るのだ。そして、その時は必ず負けるのだ 」と、切実な思いになった。そして、人間にとって本当に大事な問題は、その人に永遠の命への道が開かれているか、どうかなのだ、それが一番,大事なことなのだと、骨身にしみて感じた。人間にとって一番大切な問題は、死を越えたその先にある望みに立てるか、そう、永遠の命の問題、復活の問題である。加藤先生は、大変厳しい病状のお連れ合いの介護をしながら、「 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか 」と、主に問われながら、「 はい信じます 」と答えて、一日を生き始める。私たちの望みは本当によみがえり以外にはない。
                                                   (2014年6月22日)