2014年5月18日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月19日~5月25日

5月19日(月) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章13節~16節
  13節には、教会の命にかかわる重大な信仰が語られています。それは説教に関することです。説教は、人間が聖書の言葉を説き明かすものです。それはあくまでも人間の語る言葉だと言えます。しかし同時に、その語りかけを通して、実は神が語りかけていてくださると信じて聴く。そのような信仰の働くところに、人の語る説教の言葉が神の言葉になるという奇跡が起きるのです。テサロニケの教会の人たちは、パウロの語る言葉を神の言葉として聴きました。そのことをパウロは、教会の人たちにではなく、神に感謝しています。それは神の働きがなければ起き得ないことだからです。毎週の礼拝に出席する時に、いつも確認しておきたい信仰の姿勢です。牧師という人間の語る言葉を通して、神が語りかけてくださると信じて聴くのです。

5月20日(火) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章17節~3章5節
 「  わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか 」(19節)。パウロは、世の終わりの日、主イエス・キリストの前に立つ時にテサロニケ教会の人々を自分にとって最高の喜びとして神さまに紹介したいと考えています。教会の仲間への深い、深い愛を感じさせる言葉です。私たちはどうでしょうか。教会への思いが冷えていないでしょうか。仲間を思う心を、お互いに豊かに養いましょう。

5月21日(水) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 3章6節~13節
 パウロは、テモテを「 福音のために働く神の協力者 」と呼んでいました(2節)。ここでパウロが愛情を込めて語っているところのテサロニケの人たちもまた、パウロにとっては、神の協力者であったことでしよう。神の協力者、ある聖書は「 神の同労者 」と訳しています。「 私たちは神と共に働いている!」との確信。そこに立つ時、どんな小さな悩みの中にあっても、大きな苦しみにあっても、それから顔を背けることのない、たくましい思いを持つ事ができるのです。パウロのように。

5月22日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章1節
 パウロは、信仰者の日常生活が形成されて行く様を「 歩き続ける 」(1節:口語訳)と表現しています。信仰生活というのは、100m走のように一気に突っ走って、それでおしまいというのではありません。こつこつと歩くように、走り続けるマラソンのようなものです。時々、青年時代は夢中で走りまくるような教会生活をし、今はほとんど教会に足を向けることもないという人に出会います。ゆっくり走ることを忘れ、大切なものが身に着かなかったのでしょうか・・・。かつてのマラソンの王者アベベは、ただ自分の目の前をじっと見つめながら、40キロ余りを走りました。信仰生活は、刺激的で興奮するような変化を求めて突っ走るものではなく、興奮も緊張もないように見える平凡な毎日をゆっくりと走り続けることです。御言葉と祈りを重んじながら・・・。

5月23日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章2節~8節
 パウロは、キリスト者の日常生活を具体的に語っています。その基本は「 聖なる生活をする 」ことです(3節、7節)。洗礼堂というものを持つ教会があります。洗礼を施す特別な場所です。その部屋は天井がドーム形をしており、その形は6角形だったり8角形だったりします。その当時のお墓をかたどっているのです。洗礼を受けることは古い自分の死を意味するという聖書の考えから来たのでしょう。一方、天井のドームは、天を仰ぐという意味があります。天を仰いで、即ち神を仰いで生きる新しい自分に生き始めることを示しているのです。それが聖なる生活です。

5月24日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章9節~12節
 この手紙は新約聖書の中では一番古い手紙で、それだけに初代の教会の様子を生々しく伝えています。イエス様の昇天後、間もない教会ではイエス様の再臨がもう目前に迫っているという意識が強く働いていました。それゆえ言って見れば、劇的な生活をしていたのです。その興奮もあってか、日常の生活に手がつかない人たちもいました。それで11節のような勧めがなされているのです。そういう人たちにパウロは、劇的な生き方をやめろと言います。神に与えられたこの世の人生を誠実に、真剣に生きるには、興奮に酔いしれない不動の心、劇的に生きることが大切です。私たちが劇的に生きられるのは、すでに私たちが最も劇的なことを味わって生きているからでしょう。あなたのために死んでくれた方がいると言う劇的を。

5月25日(日) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13節~18節(Ⅰ)
 この箇所は、この手紙で中核部分をなす大事なことが記されています。テサロニケ教会の人たちは主の再臨が間近に迫っていることを強く意識していました。そこで、生きていて主の再臨を迎!る者はよいとして、主を信じていたけれどもすでに死んでしまった人の場合はどうなるのか?という不安が起きていました。パウロの書いた手紙がまだ1通も世に出まわっていない頃のことですから、信仰の正しい知識を得る源泉も少なく、不安が生じるのも無理からぬことです。パウロは言います。今述べた言葉によって、不安と悲しみの中にいる仲間を、慰めをもって互いに慰め合う教会を造りなさいと(18節)。教会には、真実に慰め合うことのできる希望の言葉が与えられているのです。悲しみの中で、無知に流されて望みのない悲しみに落ち込まないように。悲しみの中でなお、知恵を正しく保つことが大事です。