2014年5月18日日曜日


先週の説教要旨 「 魔術師との戦い 」 使徒言行録13章1節~12節 
 使徒言行録13章は、使徒言行録の新しい区切り、第二部が始まるところである。第一部では、エルサレムの教会をバックにしたペトロたちの伝道の働きが記されていたが、ここからアンティオキアの教会をバックにしたパウロの伝道の働きが始まる。パウロはその人生において3回の伝道旅行をしたと理解されているが、より正確には、パウロを通しての聖霊による伝道の働きと言うべきであろう。今朝は、その聖霊によって始まったアンティオキア教会の伝道の働きから神の御声を聴きたい。

 アンティオキア教会の人たちは、礼拝し、神の言葉を聴く中で、バルナバとサウロを神の伝道の働きのために送り出すよう、聖霊の促しを受ける。そして2人を出発させる。もし私たちがアンティオキア教会のメンバーであったら、聖霊の導きに素直にアーメンと言って、従うことができただろうか・・と考える。なぜなら、アンティオキアの教会は誕生してまだ間もない、十分に整ってはいない群れであったから。この教会は、エルサレムで起きた迫害から逃げて来た人たちによって形作られていた。彼らはやっとの思いで落ち着きの場を得たのだ。それがこのアンティオキアの教会だった。これからは落ち着いた信仰生活を送って行きたい、彼らはそう考えただろう。ところが教会が発足してまだ1年しか経っていない、幸いにも複数の預言する者や教師が与えられてはいるものの、自分たちの教会がまだ十分に整っていない。これからいろいろな面で伝道できる教会へと整えられて行く必要がある。そういう中で、大切な2人の伝道者を送り出すことを求められたのだ。正直言って損失と思ったに違いない。外に出るのはまだ早い。もう少し実力がついて、教会が整ってからで良いではないか。今は人材がいない。そう言って、彼らは自分たちの思いの中にとどまってはいなかった。この「 出発させた 」と訳されている言葉は「 解放させた 」と訳せる言葉だ。彼らは聖霊のお告げによって、2人を解放した。同時、彼らもまた解放されたのだ。パウロとバルナバを自分たちで独占しようとする小さく閉ざされた考え、自己保身的な生き方、自己中心的な考えから、自分たち自身が解放されたのである。礼拝は、私たちが人間的な思いから解放されるという神様の御業が起こる場所。だから私たちは、「 神様の言葉を聞く 」というところから出発することを大切にしたいと思う。泉教会の潮田先生がはじめて、教会の門をたたいたとき、それは希望が丘教会だったのだが、その頃の希望が丘教会は、大きな混乱の直後で、人々は傷つき、疲れ、今は外に出るよりも、内側を固めるときではないかという声が教会の中に沸きあがっている時だったそうだ。しかし、「 御言葉を宣べ伝えなさい。時がよくても悪くても 」という言葉に押し出されて、配った1枚のチラシ、その1枚のチラシを手にして教会の門をくぐったのが潮田先生だったのである。私たちは、人材不足だとか、経済的に厳しいとか、今は時期尚早であるとか、いろいろな理由を挙げて躊躇するが、神はいつでも整っていない状況を用いられる。自分たちの体制が整ってからするのでは、それが成し遂げられた時に、自分たちの力でやったと人は考えてしまうであろう。神はそれを望まれない。

 聖霊に促されての彼らの決断は、ローマ帝国の地方総督セルギウス・パウルスというひとりの人間の救いを生み出したことを、4節以降の記事は伝えている。彼は魔術師バルイエス(別名をエリマと言う)と深い関わりをもっており、危険な状態にいたのである。7節の「 交際 」という言葉は、原文ギリシャ語の意味から言うと、いつも「 一緒にいた 」ということ。それゆえ、彼は地方総督と一緒にいて魔術を使って政策を進言するブレーンのような立場にいたのだと考えられている。魔術とは、将来を予測する占いの類であったのかも知れない。そこにパウロたちがやって来た。地方総督はパウロたちの話を聞こうとした。そしてバルイエスは神の言葉を総督から遠ざけようとしたが、彼は神の裁きによって見えなくされてしまい、驚いた総督は信仰の道に入った。使徒言行録では、教会の宣教が語られる節目、節目で、魔術師との対決が記されている。それは教会が伝道を開始する時、魔術的なものとの対決があるということを指し示しているのだと思われる。教会の伝道は絶えずこの世の「 魔術的 」なもの、神の言葉から遠ざけようとする力と向き合わされるのだ。ある社会学者が『 データはウソをつく-科学的な社会調査の方法- 』という本を書いている。かつて魔術師が星の動きを見て将来を占っていたかわりに、現代は様々な数字によって将来を予想しようとする。そのために、数字に囚われ、企業では偽りの数字が並び、賢いはずの人が、簡単に数字の改ざんに走ってしまう。人は数字の魔力によって踊らされ、人が数値化されて物として扱われ、非人間化の道を邁進している。数字に囚われ、大切な何かを失っている現代社会の社会は、それこそバルイエスが「 目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した 」姿そのものではないだろうか。キリストの教会は、数字の魔力に翻弄されてはならない。それはいつでも、教会を揺さぶる力ともなるが・・・。教会は、現代の魔術とも言うべき、数字に翻弄されている社会の中に、神から遣わされて出て行って、まことの神を神とすることによって、人間を本当の人間に解放する務めのために召し出されている。
                                                 (2014年5月11日)