2014年5月25日日曜日


先週の説教要旨 「 神の救いを侮るな 」 使徒言行録13章13節~41節 
 パウロとその一行は小アジアの南、ピシディアのアンティオキィアで伝道を始めた。ユダヤ人の会堂に入ったパウロは説教をする。その説教が今日の箇所。その説教は、25節までの前半部分と26節からの後半部分と、二部構成になっている。前半部は、イエス様が来られるまでの旧約の歴史を語り、後半部はそのイエス様の十字架とよみがえりを語っている。前半部では、キリストが来られるまでの旧約聖書の歴史を振り返りながら、神様は選び出す神、導き出す神であり、その導きは、耐え忍びながらの導きの連続であったことを語る。なぜ、耐え忍ばなければならなかったのか。神の民は、神に応える歩みをしなかったから。神はいつでもそこで裁きを行なうことができたが、それを耐えて、赦している。約束の地を征服したときも、士師記の時代も、民が王を立てることを求めた時も、神は忍耐された。やがて、その王、「 ダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった 」(23節)。「 救い主イエスを送ってくださった 」という言葉は、26節においは「 この救いの言葉はわたしたちに送られました 」と言い換えられているが、「 送られた 」という言葉は、原文ギリシャ語では見知らぬ土地に送り込むこという意味がある。神の民の中に送り出されることが、神にとっては全く異質の世界の中に救い主イエスを送り出すのと同じ意味を持ったとパウロは言うのである。救い主の登場に先立って、バプテスマのヨハネは民全体に悔い改めることを求めた。それは民が、神からご覧になると、とても神の民とは思えない異質な生き方をしていたからに他ならない。ここに示されている神のお姿は、忍耐をもって選びの民を導き続けられるお姿である。そもそも、なぜ、神はイスラエルを選び、忍耐に忍耐を重ねながら、イスラエルを導き続けられるのか・・・。それは、神が人と共にあることを強く求めておられるからだ。神はエデンの園では、アダムとエバと共におられた。しかし、彼らは神に背き、その結果、彼らは神から切り離され、園から追い出された。そのとき、神はこの地上にご自身の臨在の場所を失った。地上は罪に汚れてしまい、すべての被造物は虚無に服してしまったからだ。しかし、神は人と共にあることをあきらめることできなかった。それで神はアブラハムを選び、その子孫に幕屋を建てるように指示された。幕屋という聖められた場所を設け、神はご自身の臨在の場所とされた。幕屋の一番奥、至聖所に神は臨在された。そこに行けるのは、年に一度、大祭司1人だけであった。そこで彼は民を代表して、かつてアダムが持っていた神と共に語らうという体験をしたのでる。罪を犯して服役中の人と面会することは、空間も、時間も、人数も極めて制限される。それと同じように罪を犯している人間と交われない神が、唯一、幕屋という狭い窓を通して、たった一人の大祭司と対話しながら、人類に対する愛を持ち続け、また、それを発展させられたのである。後に幕屋は神殿へと発展するが、預言者エゼキエルの時代になって、神の臨在を示す雲が神殿から去って行く(11章)。イスラエルの民が偶像を拝み続けたからだ。民はバビロン捕囚というお取り扱いを受け、捕囚から解放されると、第二の神殿を建てる。それは最初の神殿に比べるとかなり見劣りするものであったが、ハガイは「 この宮のこれから後の栄光は、先のものに勝ろう 」と預言した。この予言は、イエス・キリストにおいて成就する。イエス・キリストはこの第二神殿を打ち壊し、新しい神殿を建てると言われた。そしてその新しい神殿とは、ご自分のこと。このイエス・キリストにおいて、神はすべての人と面会をする道を開こうとされた。どんなに罪深い人間であっても、このイエス・キリストを通して、イエス・キリストにあってならば、誰でも神と会うことができる。イエス様が十字架で死んだとき、神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕が切り裂けた。神と罪びとが面会する、一切の制限が、あのとき、取り除かれたのだ。誰でもイエス様にあって、神と会うことができるようになったのである。旧約から続くこういう神の忍耐と導きがよく理解できると、「 イエス・キリストが私たちに送られた 」というこの言葉の意味の味わいがより深くなるだろう。この言葉には、旧約聖書に記された神の導きと忍耐、人類に対する変わることのない愛の思いが、一点に凝縮されて、それが感極まった形で現れて来ているのだ。その救い主が現れたとき、人々はどうしたかをパウロは説教の後半で語る。その要点は、ダビデを通して与えられていた約束は、イエス・キリストにおいて現実のものとされた。しかし旧約の預言を理解していなかった人々は、そのイエスを理解せず、かえってこれを罪人と断定して、十字架につけて殺してしまった。イエスを殺すことこそ、神に従うことだととんでもない勘違いをしていた。しかし、驚くべきことに、神はイエス・キリストが十字架で殺されてしまうことによって、神と人類が面会する道を開かれた。何と深い神のご計画か!神の愚かさは人よりも賢い!神はそこでもまた忍耐をされて、あなたがたを導こうとなさっている。その神の恵みの導きをもはや、侮ってはならない。神はキリストを十字架につけて殺すという、あってはならないことを、救いへの扉を開くものとされ、なくてはならないものとされたのだ。この不思議な神のなさりよう、深い知恵の込められた恵みの導きをこれ以上、侮るなと語る。私たちはどうか。 (2014年5月18日)