2014年5月11日日曜日


先週の説教要旨 「 神に栄光を帰す 」 使徒言行録12章20節~25節 
 私たち長老教会の信仰の生みの親となった宗教改革者カルヴァンは、のちに長老改革派教会の信仰のモットーとなった「 すべての栄光は神に 」ということを強調した。人間に栄誉が与えられるのではなく、栄誉は一切、神が受けるべきであり、神に向かってささげられるべき栄光が、人に向けられてしまうような、いかなるものは不要であると彼は考えた。私たちも長老教会に生きる者として、カルヴアンが大切にした「 一切の栄光は神に、神のみがほめたたえられるように 」という信仰の姿勢を大切にしたいと思う。今朝、与えられている聖書の箇所には、神に栄光を帰さないで、自分自身に栄光が帰されることに酔いしれ、あたかも、自分は神であるかのように振舞ったヘロデという王が登場する。「 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである 」(20節)。ティルスとシドンの人たちは王の演説を聞いてあれは「 神の声だ。人間の声ではない 」(22節)と叫び続けた。王は、人々のそのような喚声に酔いしれた。イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けられたとき、「 人はパンだけで生きるのではない 」と言われた、あの言葉を思い起こす。ここではパンで人を生かす、そのことのゆえに、自分が神と呼ばれることを喜んだこの世の支配者ヘロデが現れているのだ。人に食糧の入手経路を握られた人間は弱い。権力はそういう弱さにつけこんでくるし、つけ込まれた方も、そういう権力にこびた方が生きて行く上では、都合がいいのだと考えるようになってしまう・・・。しかしそこには、一切の栄光を神に帰すという姿勢は見られないのである。

ところで、なぜ人は神に栄光を帰さなければならないのか・・・。音楽とか、絵とか、本とか、デザインとか、そういうものにはそれを作った人には著作権という権利が与えられ、その作品にかかわる一切の栄誉は、その人が受けるべきであると言う法律がある。作った人に敬意をあらわす、それによって作者に栄光を帰す。それが著作権の基本的な考え方。それを聖書に置き換えて言うならば、この世界を造られた方は神。人も世界も、他の生き物も皆、神の作品。ならば、その造り主である方に、すべての栄誉が与えられるべきであって、それを造られた立場の人間が横取りすることは許されない。著作権の侵害になる。ヘロデはそれをした。

神はそのヘロデを撃った(23節)。彼の死は、本当に栄光が帰されるべき方の介入によるものであった。このように第12章は初めと終わりが非常に対照的である。権力者ヘロデがその権力を振るって、神の言葉を伝えていた教会を迫害し、その中心的指導者を殺すことに始まり、ヘロデは撃たれ「 神の言葉はますます栄、広がって行った 」(24節)という言葉で終わる。教会とヘロデの立場が180度ひっくり返っている。そのコントラストを通して、著者ルカは、本当に栄光を受けるべきお方、そしてこの世界を支配しておられるお方は、この世の王ではなくて、神ご自身なのだということを宣言している。教会も、この世の権力者も、皆、同じ神のもとに身をかがめなければならない。この方に栄光を帰さなければならない。しかしキリスト教の歴史は、国家との権力の争いの歴史となってしまった。本当は、教会は国家と共に、神の権威の前に身をかがめなければならなかった。それなのに、この世の権力者と張り合ったり、あるいは結託して、神の権威を隠してしまうようなことをしばしばしてきたのである。しかし、この方に栄光を帰し、この方の御前に身をかがめることを知っているならば、教会は強い。ヘロデのようなこの世の権威者が剣を振り回したら、死んでしまうような力なき者でしかないかも知れないが、そのような教会を神は守られる。だから強いのだ。私たち信仰者ひとりひとりも強い。神に栄光を帰すことを知っているならば・・・。

しかし、時としてその神の守りというのは、私たちの期待した通りに現されるとは限らない。ヘロデが撃たれて死ぬとか、ペトロが奇跡的に救出されるとか、そういうことばかりではなく、時にはヤコブの殉教というような事態も起こる。それは神の支配、神の勝利が今はその一部しか現れていないからなのである。しかし世の終わりの時には、ここで垣間見られた神の支配が完全に現れ出るようになる。もし信仰者がそのゴールをしっかりと見定めているならば、ヤコブの殉教があっても目先の不幸にとらわれてフラフラしないようになる。忍耐強くなる。信仰がまだ幼いと、どうしても目先のことでもって、神の祝福や神の守りを計ろうとしてしまう。しかし信仰が成熟すると、最後のゴールの地点を見定めているようになるので、目先の不幸があっても、このことも神の圧倒的に勝利に至る途上の出来事なのだと、どっしりと構えて受け止められるようになる。使徒パウロは言った。「 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます 」(Ⅱコリント4章17節)と。私たちは、神の支配がどんな時にも貫かれていることを信じよう。本当に栄光を帰されるべき方の支配が、その現実を貫いていることを。やがて、その神の支配はすばらしい栄光を帯びて現れ出ることを信じよう。そして、その神に栄光を帰す生き方をしよう。(2014年5月4日)