2014年4月13日日曜日


成瀬教会 <聖書日課> 4月14日~4月20日 受難週
  今週は「 受難週 」と呼ばれる特別な1週間です。イエス様の十字架へと至る受難の歩みを特別に覚えて過ごす時です。そのため、今週は詩編の通読を中断して、受難週の出来事が記された聖書箇所を読みたいと思います。

4月14日(月)マタイ21章1節~11節  
 イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されます。これはゼカリヤの預言(ゼカリヤ書9章9節)の成就でした。当時、王が凱旋する時には立派な軍馬にまたがって入城しました。しかしイエス様は預言が成就するように、つまり「 父なる神の御心 」がなるようにと、子ろばを選ばれたのでした。イエス様を歓呼で迎えた群集は、その進む道に物を敷きました。当時の習慣です。このとき、人々はイエス様に自分勝手な王のイメージを押し着せていたので、数日後、その期待がはずれたと知ると、翻って「 イエス様を十字架につけろ 」と叫び出します。「 神の御心 」と「 人の思い 」の対立、それが受難週の様々な出来事を貫く重要な視点です。あなたはどちらの思いが成ることを願っているでしょうか。どうぞ、御心への信頼を・・・。

4月15日(火) マタイ26章17節~35節
 ペトロを含めて、弟子たちがご自分から離反して行くことをイエス様は見抜いておられました。しかし見抜きながらなお、イエス様はペトロたちに約束を与えられます。「 わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く 」(32節)と。やがて弟子たちは主を見捨てて逃げてしまった自分を嫌悪し、あらゆる失意を身にまとい、一路、故郷ガリラヤへと帰って行きます。しかしその失意の中に、先立ってキリストは待っていてくださるのです。新しい再出発をすることができるようになるために・・・。「 人の思い 」はしばしば「 失意 」という形で終わります。しかし、ペトロたちを救うという「 神の御心 」は、成就するまで失われません。

4月16日(水) ルカ22章1節~23節
 ユダがイエス様を裏切ったのは、彼が期待していたメシヤの働きをイエス様がしようとしなかったからだと考えられます。彼はユダヤの国をローマの手から解放する救い主の働きを期待していたのでした。イエス様にかけていたユダの願いは破れたのです。私たちは「 自分の願い 」が破れた時、人生を投げ出してしまいたくなります。しかしここにはもうひとつの願いが記されています(15節)。イエス様の願い、すなわち「 父なる神の願い 」です。過越の食事の席で、イエス様は、弟子たちのためにご自分が十字架で死ぬことを彼らに伝えます。彼らの救いのために死ぬ、それこそがイエス様の願いなのです。ご自分の命を差し出してでも、弟子たちを生かしたいという激しい願い、あなたの願いが破れても、そのようなあなたを生かそうとする神の願い、イエス様の願いは破れずに、そこにあるのです。

4月17日(木) マタイ26章36節~46節 <洗足の木曜日>
 ゲツセマネの祈りの箇所です。御心が行なわれることをひたすら願い、祈っておられるイエス様の姿があります。その傍らには、眠りこけている弟子たちがいます。父なる神は、天からこの光景をどんな思いでご覧になっていたのでしょうか。今も、この世界の中で、御心が行なわれるようにと、切実な思いで祈り続けている者もいれば、反対に祈りを忘れて眠り込んでしまっている者もいます。私はふと、どちらの人間だろうかと、考えるのです。今の時代に御心が行なわれるよう祈り続ける者でありますように。

4月18日(金) ヨハネ18章38節後半~19章16節前半 <受難日>

 イエス様の十字架の場面です。ピラトはイエス様に何の罪も見出すことができませんでした。過越祭の恩赦を利用してイエス様を解放させようとしたほどです。彼は繰り返し、このイエスという男は無罪だとユダヤ人に訴えました。しかし、ついにユダヤ人たちの声に押し切られてイエス様を十字架につけてしまいます。公平な為政者として十字架を阻止しようとするピラト、救い主としての十字架の御業を阻止しようとするサタン、イエス様へのねたみから十字架につけたいと願うユダヤの指導者たち、期待はずれへの怒りから十字架を求める群集、いろいろな思惑が働く中で十字架は成就します。一見すると、群集やユダヤ指導者の思惑が成就したように見えますが、そうではありません。本当に成就したのは、罪人の贖罪を目的とした十字架、すなわち父なる神の御心としての十字架が成就したのでした。様々な人の思惑の中で、「 神の御心 」は成る、それを阻もうとする人の思いを突き破って・・・。

4月19日(土) ヨハネ19章38節~42節
  イエス様のご遺体は、金曜日の夕方にアリマタヤのヨセフという人の墓に納められました。土曜日、主のご遺体は墓の中に置かれています。これは嵐の前の静けさのような土曜日です。人間の思いだけが勝ち残り、神の思いは葬り去られたかのような静けさ・・・。しかし、まるで神がいなくなってしまったような静けさの中で、神はじっとその時が来るのを待っておられるのです。そして満を持して御子を復活させられるのです。神の御心は決して、人が葬り去ることはできません。一時的には葬り去れたように見えたとしても、それは成就の時を静かに待っているに過ぎないのです。「 土曜日のキリスト 」、「 神の御心 」の確かさを示す信仰の言葉です。

4月20日(日) ローマの信徒への手紙8章31節~39節 <復活日>
  使徒パウロは、神の愛の勝利を高らかに歌っています。この箇所は、イエス・キリストの十字架と復活を通してもたらされた恵みがどんなに圧倒的な恵みであるかを、「 これしかない 」という言葉でもって表現しています。どうぞ、声に出して読んでみてください。いかなるものも、あなたを神の愛から引き離すことはできない!