神はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに招かれる、その神の御業を記した不思議な幻を伴う出来事が、今朝の箇所で完結する。ペトロは、異邦人コルネリウスのところに導かれ、神が救いにおいて、人を分け隔てなさらないということをよく理解した。そして、聖霊を受けた異邦人コルネリウスに洗礼を授けたことを、エルサレムの教会に戻って、教会の人々に報告する。果たして・・・エルサレム教会の人たちは、異邦人コルネリウスが救われたということを受け入れるのか、そのやりとりが今日の箇所に記されている。
ペトロは丁寧に自分が経験したことを順を追って説明しながら、コルネリウスが聖霊の賜物をいただき、洗礼を受けて救われたことは、神がなさったことであって、その神がなさろうとしていることを誰が妨げることができるだろうか、と説得した。ペトロの説明を聞いた人々は、「
静まり、『 それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ
』と言って、神を賛美した 」(18節)。静まりが生まれ、その人たちの中でぶつぶつぶつぶつ言っていたつぶやきがなくなった、コルネリウスたちを受け入れ、神の救いの御業を受け入れた。喜びと感謝をもって、賛美の歌を歌わざるを得ない思いをもって、これを受け入れた。真に素晴らしい教会の喜び語られている。最終的には、皆が神の御業を受け入れ、賛美する形で、一件落着している。ペトロは、彼らがそのように導かれるために、決定的なひとつの言葉を口にしていた。「
わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか
」(17節)。神がなさることを妨げてはならない。これが説得における決定的な言葉となった。教会の伝道の業は、神がなさる業を妨げないとするところにその特質がある、そう言うことさえできると思う。
希望が丘教会は高座教会のIさんという方の家庭集会から始まった。でも、あまりにも人が集まらないので、牧師に「 申し訳ない
」 と言ってやめようとした。そのとき牧師は「 神が望まれて造った聖書会であるならば、人が壊してはいけないでしょう 」と言って続けたという。それが今日の希望が丘教会の始まりだった。神がなさろうとすることを妨げない、希望が丘教会はその信仰によって生まれた教会なのである。教会の伝道の業は、人間が何かの計画を立てて、精力的に事をこなすことによって進展するというのではなくて、むしろ、神が先導してくださるのであるから、その神がなさろうとすることを妨げない、そこに教会の伝道の働きの特質があるのだ。このことは、一見、消極的な姿勢に思えるかも知れないが、使徒言行録という最初の頃の教会の伝道を記したこの書では、伝道はいつも神が主導権をもって道を開き、教会はそれを妨げないようについて行く、そのことの連続である。
神がなさろうとすることを妨げない。それはもう少し丁寧に言うと、人を分け隔てなさらない神のなさることを妨げないということ。神は人を分け隔てなく、人をご自身の教会に招こうとされる。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、若い人であろうと、高齢の人であろうと、男であろうと女であろうと、神は分け隔てなく、すべての人を救いに招き入れたいと願っておられる。教会の伝道の業は、神が連れて来られた人を分け隔てなく、教会の中に受け入れということなのであり、大切なのは神がお連れなさった人たちを受け入れる「
受け皿 」を用意することなのである。介護施設の中には、ハイソサエティーであることを売りにする施設もあるそうだ。設備も、働いている職員も、食事も、娯楽も、そして入居者も皆、ハイソ。そういう施設に入る人たちは、人生で成功を収めた人間、他の人たちとは自分は違う、そのことに強い自負の心を持っている。心のどこかに、自分と他者を分け隔て、優越感を味わっているところがある。しかし、最後の最後までその分け隔ての中で人生を終えるようにして、果たしてそれでいいのだろうか。それは神の価値観とは相容れない価値観なのだが・・・。その施設がしていることは、神が用意された「
汚れた動物も、清い動物も入っている大きな布 」の中から、「 これはいいけど、これはだめ 」と言って、選り分けをするようなもの。教会はこのような過ちを犯すわけには行かない。もし神が教会にお連れした人を、私たちが品定めして、「
これはいい、これはダメ 」と言い始めたら、とんでもないことである。神のなさろうとすることを妨げない、そういう考えを根底に持っていることが大事だ。それは、若い人と高齢者の差別をも排除する。教会の将来のために、若い人が必要だと私たちは考える。当然のことである。しかし、若い人が救われたときは大喜びし、もうあまり奉仕もできなくなっている高齢者が救われたときは喜びも小さいというのであれば、それはやはり違う。神は若い人が救われれば喜ばれるし、高齢の方が救われても、同じように喜ばれる。一人の罪人が悔い改めるならば、大きな喜びが天にある。教会はその喜びを共有する群れ。私たちの教会は、高齢の方が救われて、人生の最後に神様と出会えたという、そういう喜びを提供する場として用いられることを喜べる教会でありたい。先日召されたY姉は、自分が最後に身を寄せるべきところは、不動尊ではなく、やはり教会なのだ、という思いを看板書きの奉仕に込めておられた。私たちはその喜びを共有できる群れでいよう。 (2014年4月6日)