2014年4月20日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月21日~4月27日

4月21日(月) 詩 編 127編1節~5節
  「 主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから 」(1節~3節)。自分の手ですべてを成し遂げなければならないと思うと、人は安らげなくなります。人は自分の人生であっても、自分の力で完成することはできません。精一杯労した働きに神が手を添えてくださるのです。たとい、できなかったことがあったとして、それを神の手に委ねて眠るのです。あなたが働きを開始する前に、「 委ねつつ 」ということがなければ、本当に良い仕事はできないのです。

4月22日(火) 詩 編 128編1節~6節
  「 いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ 」(1節)。この詩編の主題は家庭生活です。多くの実を結ぶぶどうの樹のような妻、そしてオリーブの若枝のような子どもたち。とてもうるわしい家庭の姿です。立派な調度品、快適な設備、豊富な食べ物がそろっていても、そこに真の信仰がなければ、魂は冷え、ひとつ屋根の下の魂はバラバラに乱れ、暗雲がすべての部屋を覆うようになって行きます。あなたの家庭を真に祝福されたものにする、ただひとつのことは、あなたが主を畏れ、主の道を歩むことです。

4月23日(水) 詩 編 129編1節~8節
  「 抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ 」(6節)。屋根の上の草、私が子どもの頃は、まだ、かやぶき屋根の家が散見されました。屋根の交換作業は、近所の人たちも総出で手伝って、それは、それは、見ていて飽きない光景でした。かやぶき屋根には、草が生え、時折、花が咲いていることさえありました。しかしユダヤの屋根は土などでしっかりと固められているので、草が根付く前に日の照り返しで枯れてしまうのです。神の言葉はよく耕された土のような心にまかれると、グングン成長して豊かな実を結びます、必ず・・・。私たちは一生をかけて、心の畑を耕しながら、御言葉の種を蒔いていただき、ひとつひとつ実を実らせて歩みます。

4月24日(木) 詩 編 130編1節~8節
  「 わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして 」(5節~6節)。気持が落ち込んでしまったとき、あなたはどうするでしょうか。気晴らしにおいしいものを食べに出掛け、何か楽しいことでもするようにしますか・・・。人生に落ち込みはつきものです。下へ、下へ、落ち込み二度とはいあがれなくなるような落ち込みなら、御免こうむりたいところです。しかし、いかなる落ち込みであっても、そこから高く、高く、人生の高みに引き上げられる道があります。それは、主を待ち望むこと、神の言葉を待ち望むことです。その「 待ち 」は、夜には必ず朝が来るように、かならず主の答えがやって来る「 待ち 」なのです。わたしの魂は主を待ち望みます。あなたは・・・・?

4月25日(金) 詩 編 131編1節~3節
  「 主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません 」(1節)。創世記のエデンの園でアダムに与えられた戒めのように、神の戒めは人間を縛り付けるものだと考える人がいます。そしてその戒めを越え出たところに、人が本当に自由になる場があると思うのです。神の戒めを越えるということは、人間の限界を越えるということです。人間の限界を越えるとき、実は人間は壊れてしまうのです。無防備で大気圏に飛び出るようなものです。神の戒めは人間への配慮であって、その中にとどまって生きるときに、真に人間の命の豊かさ、美しさを知ることができるのです。私たちは限界を嫌いますが、ドーピングのように無理に限界を越えようとすると、かえって自分自身を壊してしまうのです。

4月26日(土) 詩 編 132編1節~18節
  「 主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください。あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も 」(8節)。都心を離れて、田舎の旧家の並ぶ町を歩いていると、家の敷地内に祠(ほこら)が建てられている家に遭遇することがあります。鳥居が建っている場合もあります。でも、それらをよく見ると、家の方がはるかに立派で、祠は小さくて、古びています。思わず、ニヤついてしまう光景です。ダビデは、最上の場所にこそ、神様が住まわれるべきだと考えました。あなたは神様をどこに安置していますか。あなたの心の中の一丁目、一番地、そこに「 主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください 」と言いましょう。

4月27日(日) 詩 編 133編1節~3節
  「 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び 」(1節)。この詩は礼拝をしているときの姿を歌っているものだとの解釈があります。礼拝するために、兄弟姉妹が座っている。そこに座っている人たちの間には、生活や仕事、性格など、様々な違いがあります。利害関係、あるいは緊張関係すら、あるかも知れません。しかしそれでもいいのです。そういう人間たちが神を見上げて共に座る、礼拝の席につくことによって、本当の意味で兄弟姉妹になっていく、そう、神の憐れみによって。神を仰いで共に座る以外に人が真に兄弟姉妹となる道はありません。