2014年4月30日水曜日


先週の説教要旨 「 復活の主はなお近くに 」ヨハネ福音書21章1節~19節 

「 ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか 」と、主は3度ペテロに尋ねられた。それでペトロは悲しくなった。主が十字架にかけられる前夜、「 たとえ、他の者があなたを見捨てても、私はどこへでも従ってまいります 」と固い決意を口にしたのに3度イエス様を知らないと言ってしまった。主はそのことを意識して問われた。ペトロにしてみれば、決して触れてほしくないことであった。その意味では、ペトロは聖書の中の人物で、主によって最も深く傷つけられた人物だと言えるかも知れない。もし神がいるなら、神は人間を悲しませるはずはないと考えている人たちがいる。しかし聖書は、人間にとって尊い意味を持つ悲しみを与える神を語る。富める青年がイエス様に「 永遠の命を手に入れるにはどうしたらよいか 」と質問した時、青年はイエス様の答えを聞いて悲しみながら立ち去った。主は、立ち去って行く青年をいつくしみのまなざしたでご覧になっていた。ペトロは主から悲しい思いをさせられたが、立ち去ることをしなかった。その痛い問いに向き合い続けたペトロのありようは、とても大切である。なぜなら、それが聖書の言う信仰だから。「 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」と、Ⅱコリント書にある。主がペトロに与えられた悲しみは、この救いに通じる悔い改めを生じさせる、そういう幸いに通じる悲しみであった。今朝の罪の告白への招きの言葉は、イザヤ書59章1節、2節、「 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ 」というものだった。罪は私たちと主との間に隔たりを造り、恵みの通路をふさいでしまうのもの。だからその恵みの通路を開くために、罪はそのままにしておくべきではなく、それを告白し、神に赦していただき、取り除かれる必要がある。魂の医者であるイエス様は、取り除かなければならない患部があることを知りながら、それをそのままにして縫合するようなことはなさらない。患部を取り除かれる。イエス様がペトロの傷に直接触れるような問いかけをなさったのは、そのためであった。

「 この人たち以上に 」という言葉は特にペトロの胸を刺した。他の者が見捨てて逃げも、この私だけは・・・と言い張ったからだ。この主張を支えていたものは、自分は他の弟子たちと違う、よりしっかりした人間なのだという自負の心。あの人は、こういうところがだらしない。こういう点はちっともなっていない。私はそうやって他者を見下すことができる人間なのだ、という自負の心。私たちは、誰であっても、そのような自負の心を心の底に持っている。そして悲しいことに、そういう自負の心を拠り所として立っている。私はあの人のようなダメな人間ではない、他者との比較から生まれる歪んだ自信のようなものが、自分の拠って立つ根拠となっているのだ。主はそういう心を、人間を腐敗させる患部としてご覧になる。神からの恵みの通路をふさぐ、取り除くべきものとしてご覧になる。主を否認したとき、ペトロが拠って立っていた自負の心は、粉々に打ち砕かれてしまったはず。だがそれでもペトロはなお、自負の心から離れることができない。あんな失敗をしてしまった自分を赦すわけには行かない、あんな姿を自分だけと認めたくない。そういう自負の心に今もなお、こだわり続けているから、ペトロはよみがえりの主に何度もお会いしていても、主から遠ざかり、ガリラヤに戻って主に従う前の漁師の生活に戻ってしまったのである。主は、そういうペトロをもう一度、立ち上がらせるために、ペトロに近づかれた。そして「 わたしを愛しているか 」と問われた。この問いかけの前には、いかなる自分へのこだわりも、手離さざるを得なくなるのではないか。なぜなら、この言葉にはイエス様の思いのすべてが込められているから。「 ペトロよ、私の身に起きた受難という苦しみ、そして十字架の出来事、復活・・・それらの一連の出来事は、すべて『 あなたのため 』のものだったのだよ、それが分かるか。私は今もなお、あなたのことを愛している、その愛は変わらない。あなたを弟子として召し出したいと願っている。その意思は変わらなのだよ 」と言う思いが込められている。ペトロは「 はい、主よ わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです 」と答えた。以前のペトロであったら、こうは答えなかっただろう。ペトロは「 自分の愛の力であなたを愛することなんかできません。あなたを真に愛する愛は、あなたが私の心に呼び起こし、あなたがそれを支えてくださる、あなたが与えてくださる愛によってしかないのです 」と答えているのである。だからそれはあなたが一番よく知っていてくださることだと・・・。自分のだらしないことも、弱いことも、何もかも知っておられる主にすっかりお任せしてしまっている心もちなのだ。そうやって完全にイエス様に頼り切りながら、しかしペトロは主に対する愛を誓う。主はペトロに、「 わたしの羊を飼いなさい 」と言われた。主はペトロのような傷を持った人間を教会の尊い務めにつけられる。そういう痛みの経験を持っているということが、教会の宝になるのだ。健やかに羊の世話をする人間はこの痛みとそれに伴った愛を覚えている人なのである。(2014年4月20日)