2014年4月6日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月7日~4月13日

4月7日(月) 詩 編 120編1節~7節
  120編から134編までは、「 都に上る歌 」と言われる、いわゆる礼拝のためにエルサレム神殿のある都へと上って行くときの巡礼の歌です。この120編がなぜ巡礼歌として数えられているのか、疑問を呈する人もいるようですが、詩編の作者が5節の地名から、外地に住んでいた離散のユダヤ人と考えられるので「 都に上る歌 」に組み入れられたようです。「 苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった 」(1節)。信仰は安全地帯を歩くようなものではありません。神は私たちに安全な道を保証されるのではなく、闇の中を行くように、危機的な道を一歩ずつたどらせるお方です。私たちは、神に呼ばわりながら、神の答えをいただきながら、その細い一筋の道を歩んで行くのです。

4月8日(火) 詩 編 121編1節~8節
  121編は「 都に上る歌 」の中でも最も有名なものです。「 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか 」(1節)。エルサレムは高い場所にあり、都が近づくと下から見上げるような都を仰ぐのです。ちょうど、谷底から聳え立つ山の頂を見上げるように。巡礼者たちは、谷底に置かれたような生活にあっても、目を高く天に向けた、その思いがあふれています。 見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない 」(4節)。神はあらゆるものを見て、知っておられる方、というだけではありません。「 見守って 」いてくださる方です。この神の視線から逃れて、人間は決して楽にはならないのです。そのとき、人は「 守り 」を失っているのです。

4月9日(水) 詩 編 122編1節~9節
  「 主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった 」(1節)。幼い子どもが喜ぶ姿を見るのはもちろんのこと、人が喜んでいる姿を見るのはうれしいものです。ことに、お年寄りの人が心から喜んでいる姿を見ると、何か荘厳な「 人生の喜び 」を見るような思いがします。この詩編の詩人は、人々が「 神を礼拝しに行こう 」と言っている姿に喜びを感じています。年を取り、痴呆症になった母が「 今日は礼拝に行く日だから 」と、弱った体をゆっくりと動かしながら一生懸命に着替えます。しかもそれが毎日のことなのです。でも息子はその姿に、母の喜びを感じています。「 神を礼拝する者とされた 」人の喜びです。

4月10日(木) 詩 編 123編1節~4節
  「 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます 」(2節)。観光バスに乗ると、今まで見たこともない素晴らしい景色ばかりで、ついついキョロキョロしてしまいます。それは楽しいことです。しかし人生は決勝点を目指して走るレースのように、キョロキョロせずに一点に目を向けて走るものだ、と聖書は言っています。決勝点がどこだか分からないような走り方をしないようにとパウロも奨めていますね(コリントⅠ9章26節)。神の手は、私たちに走るべき道を教え、目標を指し示し、なすべきことを示し、必要な良いものをすべて与えてくださるのですから、私たちは常に神の手に目を向けて行きましょう。

4月11日(金) 詩 編 124編1節~8節
  「 主がわたしたちの味方でなかったなら・・・そのとき、大水がわたしたちを押し流し、激流がわたしたちを越えて行ったであろう 」(1節、4節)。もし神が味方でなかったなら・・・そんなこと、考えただけでも息が止まる恐ろしいことですね。もしそうだとしたら、流れに棹差すように神に逆らって生きて行かなければならないとしたら、人生は耐え難いものであったでしょう。力尽きるまで苦闘の連続ということになったでしょう。しかし神は私たちの味方です。神はあの手、この手で私たちを祝福の世界へと導こうとしていてくださるのです。信仰は激流の中を行くのに似ています。世の激流を恐れ、人間的な安全策に走り妥協するとき、神を見失い、信仰を失うのです。激流のただ中でこそ「 神はれわらの方におられる 」のです。

4月12日(土) 詩 編 125編1節~5節
  多くの人々の人生は、経済、健康、人間関係などの破綻により、傷つき、思ってもみなかった多くの出来事に直面します。砂のようにもろく崩れ去り、海の水のように泡立ち、安定がなく、風に吹き飛ばされる「 もみがら 」のようです。それは信仰者であってもしばしば経験する人生の必修科目のようです。しかしそのような人生にあって、詩人は「 主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る 」(1節)と歌います。嵐の中の平安、それが信仰の真髄です。

4月13日(日) 詩 編 126編1節~6節
  126編もよく知られている歌です。特に6節の言葉は伝道とのからみから引用され、耳にすることがありますね。「 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる 」(6節)。種まきの多くは、寒風荒ぶる冬に行なわれました。春に備えてのことでしょう。農夫たちは泣きながら出て行きました。いちばん辛い季節に、いちばん辛い仕事を人だけが収穫の喜びを味わうことができるのです。背に耐え難い重荷がのしかかるとき、それは単なる重荷ではないのです。それは時がくれば必ず祝福を生み出す種なのです。私たちは種を背負っているのだということを忘れないようにしましょう。その重さは、そのまま祝福の重さに変えられる日が必ずあるのです。