2014年3月30日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月31日~4月6日

3月31日(月) 詩 編 119編121節~128節
  「 それゆえ、金にまさり純金にまさって、わたしはあなたの戒めを愛します 」(127節)。人生には、いろいろな大切なもの、必要なもの、尊いもの、値打ちのあるものがあります。その中で詩人は、神の戒めを第一のものとして愛すると言います。人は何を一番に愛しているかによって、その人の人格、生き方、人生観が変わってきます。あなたは何を一番に愛しているでしょうか・・・。ある人はこう言いました。「 あなたが独りぼっちでいる時に一番よく考えるもの、それがあなたの一番愛しているものなのだ 」と・・・。私たちは独りでいるときこそ、ろくでもないことを考え、値打ちのないものを恋い慕うのではありませんか。私たちは皆、主の憐れみによって造り変えられることを必要としていますね。

4月1日(火) 詩 編 119編129節~136節
  「 御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます 」(130節)。高校の時の教頭先生から耳にたこができるほどに「 読書百遍、意、自ずから通ず 」と言われ続けました。いつも背筋の伸びた方で、その姿勢は先生の生き方を象徴していました。聖書も同じようなことを言っていますが、意味が分からないからと百篇も読む必要はありません。聖書は自分から読み込もうとするものではなく、神の側からの語りかけが聞こえてくるのをじっと待つようにしていればいいのです。神の言葉は不思議です。同じ箇所でも、自分が置かれている状況が変わると、今まで感じなかった語りかけが聞こえるようになったりします。御言葉を繰り返して読みながら、じっと向こう側から聞こえてくるのを待ってみましょう。

4月2日(水) 詩 編 119編137節~144節
  「 恵みの御業はとこしえに正しく、あなたの律法はまことです 」(142節)。イエス様は「 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである 」(5章17節)と言われました。まことであるはずの律法がファリサイ派や律法学者らによって曲解されて教えられ、本来、人々の生活に恵みの御業を作り出すはずの律法が、かえって人々を縛り付けるものになってしまっていたのです。イエス様はそれと戦い、律法の本来の位置を取り戻そうとされました。私たちにも、神の律法を縛るものとして聞くのではなく、恵みの御業を作り出すものとして聞き続けるという戦いがありますね。

4月3日(木) 詩 編 119編145節~152節
  「 主よ、慈しみ深くわたしの声を聞き、あなたの裁きによって命を得させてください 」(149節)。新改訳聖書はここを「 あなたの決めておられるように、私を生かしてください 」と訳しています。聖書が人の生き方として求めていることは、自分の思いのままに生きることではなく、全能の神の御旨に委ねることです。死するも、生きるも、恥も、栄えも、貧にも、富にも、あなたの御心のままに、あなたの決めておられるように、この私を生かしてくださいという信頼と従順を学ぶことが信仰の極みなのです。イエス様の最後の祈りは「 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに 」(マタイ26章39節)でしたね。

4月4日(金) 詩 編 119編153節~160節
  「 主よ、あなたの憐れみは豊かです。あなたの裁きによって命を得させてください 」(156節)。神は戒めを与えられるだけでなく、「 裁き 」を行なわれる神です。もし裁きがなければ、人は皆、自分の好む道を選び、迷い出て命を失うのです。神に裁かれ、打たれながら、人は命の道に繰り返し立ち帰らされます。厳しい裁きの中に、神の「 憐れみ 」が込められていることを忘れないようにしましょう。

4月5日(土) 詩 編 119編161節~168節
  「 日に七たび、わたしはあなたを賛美します。あなたの正しい裁きのゆえに 」(164節)。日に七度も賛美しますというのは、7回という回数のことを言っているのではありません。聖書の中では「 」という数字は特別な意味を持っていて、「 完全 」を意味する数字として使われること、しばしばです。イエス様は7の70倍、赦せとおっしゃられましたよね(マタイ18章22節)。完全に赦せという意味です。詩人は、自分の存在そのものが神への賛美となるような歩みをしたいと願っているのです。ある人が「 歌を歌える心と言うのは、人生を肯定している心なのだ 」と言っています。人生いろいろありますが、一番深いところではそういう人生を肯定していなければ、本当に賛美の歌を歌うことはできないということにも通じますね。神に導かれ、与えられて今ある人生を私たちも肯定したい・・・。

4月6日(日) 詩 編 119編169節~176節
  長かった119編もついに終わりを迎えましたね。 「 わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください 」(176節)。羊は方向感覚の鈍い動物です。迷いやすく、小羊ならなおさらです。迷った羊は自分がどこにいるか分かりません。歩けば歩くほど、迷い込んでしまいます。羊飼いに見つけてもらうしかありません。私たちもそうです。自分で見出して帰ることなど、できないのです。私の息子が学校の授業で社会見学に行ったとき、彼は迷子になりました。そして自分で先生を探すことをあきらめ、先生に探してもらおうと決心し、一番目立ちそうな場所にじっと立っていました。やがて無事に先生に見つけてもらえたのでした。「 あなたの僕を探してください 」、これが私たちの絶えざる祈りです。