2014年3月9日日曜日


先週の説教要旨 「 聖霊の慰めを受けて 」 使徒言行録9章19節~31節 
  現代は、計画通りに事が進むことが求められる時代である。人間が計画を立て、その計画通りに物事が進んで行くことが重んじられ、計画通りに行かないということは悪しきことと受け止められる。しかしそれは危険なことではないか・・・。なぜならば、人間の計画が全てではないからである。むしろ、人の立てた計画通りには行かないというところでこそ、神の働き、計画が現れ出てくる。聖書に登場する人物は、皆、人生は自分の計画通りには行かないものであるということを身をもって知らされ、しかし、そのことがどんなに幸いあふれる道であるかを知った人たちなのである。生まれ故郷を離れるよう命じられたアブラハム、ミデヤンの地で平穏に羊飼いをしているところから神にエジプトへと呼び戻されたモーセ、イエス・キリストの育ての父となったヨセフ、皆、自分が思い描いていた計画通りに事が進まないという経験をしている。しかしそのことで、かえって神が自分に対して持っておられた深い計画を知るようになったのである。今朝の聖書の箇所に登場するサウロも同じ経験をしている。サウロは教会を迫害し、教会をつぶしてしまおうとダマスコの町に向かっていた。しかしその途中で復活のキリトと出会い、キリストを信じる者となり、180度ひるがえってキリストを宣べ伝える者になった。まさか自分が、迫害している教会の一員になるとは思わなかったであろう。それは全くの想定外、彼の人生計画にはなかったことである。そのように神に用いられた人というのは、自分の計画が破綻し、計画の変更を求められた人たちなのだが、私たちの計画が破綻することは、より大きな神の計画へと招かれることなのである。神が働かれる!だから計画通が崩れることを私たちは前向きにとらえて良いのである。


  キリスト者を捕まえて牢屋に入れるために、サウロはダマスコに向かっていた。しかし今は、全く異なる理由でダマスコの町に立っている。サウロは神によって用意された彼の新しい人生を生きるために、ダマスコへの町に立っていた。そのとき、ダマスコの町の景色は、彼がかつて知っていたものとは全く違ったものに見えていたに違いない。復活のキリストとの出会いが、ダマスコの町の景色をまったく異なるものへと変えたのである。キリストとの出会いは、私たちが今までと同じ場所に通うにしても、そこを全く異なる景色に変えてしまう。私たちはキリスト者になった後も、同じ職場、同じ学校、同じ家庭に通う。しかしキリストとの出会いによって、あなたがそこに行く目的は変えられた。あなたはキリストを証しするというより大きな目的のために、その職場に、その学校に、その家庭に遣わされて行くのである。そうやって、あなたはより大きな神の計画の中に生きるようになるのだ。
 成瀬教会の駐車場は、一日に何台もの車が方向転換をして行く。これは象徴的な行為として、教会にふさわしいと思う。教会は、人々がキリストと出会い、その生きる方向を大きく転換して行く場所なのである。今まで自分の計画ばかりに生きていたところから、神の計画に生きるようになる、教会はそういう神の御業が起こる場所。ここにいる私たちはその神の御業を経験したのである。

  ダマスコの町に入ったサウロは「 この人こそ神の子である 」と、キリストを宣べ伝え始めた。それは当然、人々を驚かせ、かつて仲間であった者たちから強い反感を買い、殺害されそうになる。それを知ったサウロは籠に乗せられ、町の城壁づたいにつり降ろされて町を脱出する。サウロは「 籠の中の人 」になったのである。この籠という言葉は、イエス様のパンの奇跡で余ったパンを集めたときの籠と同じ言葉が使われている。あのとき籠は、キリストが人々を愛し、お与えくださった恵みの偉大さを証するものになった。サウロも籠の中の人となることで、キリストの偉大な恵みを物語る人物となって行く。ここには、神は愛する者を救い、豊かに祝福するために「 籠 」の中に入る体験を与えるという示唆があるように思う。モーセは赤ちゃんの時、パピルスの籠の中の人となった。そこからもスケールの大きい神のドラマが展開した。サウロの場合、籠の中の人になるということは、キリストにあって味わう屈辱的な体験という形を取った。それはパウロ自らが計画していたようなものではない。神が計画されていたことであった。ひるがえって、愛の神はどのような形で私たちを「 籠の中の人 」になさるであろうか。「 籠の中に入れられる経験 」は、私たちの人生計画にはないだろう。しかし神のそれにはある。それは私たちをさらなる祝福の世界へと招き入れるために、神が用意されているものなのである。

 その後、サウロはエルサレムに戻り、そこで弟子たちと会うのだが、最初は疑われて仲間に入れてもらえない。そこでバルナバが仲介者となって働くのだが、教会の人たちも、まさかあのサウロが自分たちの仲間になろうとは全くの計画外であっただろう。サウロにしろ、教会の人たちにしろ、それぞれに自分たちの思い描いていた計画が破綻し、そこで明らかになってきた神の計画を、信仰をもって受け止めて行ったのである。こうして教会の基礎は固まった(31節)。サウロのような偉大な伝道者ひとりで、教会の伝道の働きが成り立つのではない。サウロも支えてくれる周りの人の存在が必要だった。こうして教会の基礎は固まった。そのような歩みを聖書はまさに聖霊の慰めを受ける歩みであったと言う。  (2014年3月2日)