2014年3月30日日曜日


先週の説教要旨 「 神の恵みは広く、深く 」 使徒言行録10章34節~48節 

 神は、ユダヤ人だけでなく、異邦人であるコルネリウスを救いに招き入れられる。異邦人の救いは、旧約時代にはあたかも添え物のように、端っこに置かれていた。中心に置かれているのはユダヤ人の救いだった。しかし今や、ユダヤ人も異邦人も皆、等しく中心に置かれ、神の救いに招かれる新しい時代が来た。そのことを神は不思議な幻を通してペトロに示された。そのことをペトロがよく理解したとき、彼は「 神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました 」(34節)と告白した。これは求道中の人の言葉ではない。すでに教会の中心的人物になっていたペトロの言葉なのだ。そのペトロが今、「 自分は今まで神のことをよく知っていると思っていたけれども、そうではなかった。むしろ、自分は神のことを少しも分っていなかったのではないか 」と告白している。このペトロの言葉には、罪を告白する思いが含まれている。神はユダヤ人と異邦人というように人を分け隔てなさると思っていた。だから自分も神のなさり方にならって分け隔てして来た。それはとんでもない間違いだったとの罪の告白である。神がよく分かるということは、もはや人を分け隔てするわけには行かないのだと言うことがよく分かるということである。他人だけでなく、自分をも分け隔てしないのである。自分の良い部分は受け入れられるけれども、醜い部分は受け入れない、それはしないのである。私たちは、今朝、ペトロと同じように告白するに至りたい。神は人を分け隔てなさらない、その恵みは深く、広いたことがよく分かったから、私もあなたに見合う生き方をしますと。

神はユダヤ人であろうと、異邦人であろうと決して分け隔てなさらず、私たちひとりひとりの命を重んじ、愛してくださる。しかし、ペトロの経験をしていないユダヤ人は、今でも神の愛はユダヤ人だけのものであると考えている。2011年にイスラエルの兵士ギルアット・シャリートがテロリストたちから解放された。イスラエル政府は彼1人を解放してもらう代償として、1027名のテロリストを解放するという交渉をして、ついに彼の救出に成功した。イスラエルは1人の人間の命の価値を知っていたのだ。イスラエルには「 ひとりの人間を救う者は世界を救う 」という格言がある。1人の命をそれほど重いものと見ているのだ。敵対するアラブからも「 1人と1000人を交換したあなたの国の人間観がうらやましい 」と、この決断を賞賛する者も現れた。だが、なぜそのような命の重さを知っているイスラエルが近隣のアラブの人たちの命を平気で奪えるのか・・・。それは、彼らの命の価値観は同胞にだけ適用されるものであり、異邦人には適用されないからである。つまり、人を分け隔てしているのである。もし現代のユダヤ人が、このペトロの体験をするならば、パレスチナの状況は今と大きく変わることだろう。

  ペトロは、コルネリウスをはじめ、集まっている異邦人たちに向かって、人を分け隔てなさらない神が私にはよく分かったと言って、イエス・キリストの出来事を簡潔に語り始める(36節から43節)。それは十字架と復活をクライマックスとしたキリストの生涯なのであるが、イエス・キリストは徴税人や遊女、罪人と呼ばれ、人々から分け隔てされている人たちのところに赴き、御業をなさった。その行動が宗教指導者たちの憎しみを生み、十字架においてその肉体を刺し貫かれる。しかし十字架上で刺し貫かれたものは、本当は分け隔てに固執する人間の罪であったのだ。神はそのようにして一人一人に対する愛を示された。私はその愛を証しする者として神から遣わされたのだと語った。

神は人を分け隔てせず、ひとりひとりの命を重く見てくださるのは、なぜなのであろうか。なぜ、神は優秀なこの人の命は重い価値があるけれども、無力なこの人の命は軽い価値しかないという見方をされないのだろうか・・・。それはあなたの命が取替え不可能だから、代用がきかないからだ。私が卒業した企業内学校の校歌には「 明日はなろう・・・社会の立派な歯車に 」という歌詞があった。今思うと恐ろしい歌詞に聞こえる。社会の歯車、まるであなたの命は交換可能なもの、歯が欠ければ他のものと代えるだけだよと、言われているようだ。しかし神は、あなたの存在、あなたの命は交換可能のようなものではないと言われる。拉致被害者の横田さんご夫妻がモンゴルで孫に会った。何十年経っても変わらぬ親の愛・・・回りの者は、「 いい加減に忘れて、もっと自分の人生楽しんだら 」などとは決して言えない。なぜなら命は置き換えがきかないからだ。早紀江さんはクリスチャン。だから自分たちだけで頑張っていると思わない。自分たちにもまして、神がめぐみをかけがえのない存在として愛してくださっている。その事実が自分たちの背中を後押ししてくれていると。

 人を分け隔てなさらない神を知ったコルネリウスは罪の赦しが与えられるための洗礼を受けた。彼は信仰心あつく、神を畏れる立派な人格者であったが、洗礼を受けた。人はどんなに人格者であっても、罪の赦しを必要とする。その点においても、神は決して人を分け隔てなさらない。(2014年3月23日)