2014年3月23日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月24日~3月30日

3月24日(月) 詩 編 119編65節~72節
  「 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました 」(71節)。119編の中でもよく知られ、また愛唱されている聖句でもあります。71節のように告白が、よく考え、反省して、その結果、謙虚にされる形でなされるということは稀なことです。多くの場合、撃たれて、砕かれて、はじめて目覚めるのです。そのとき、厳しいと思った神の掟が、どん底で人間を支える力であることを知らされます。この告白の言葉にはそのような詩人の体験が込められています。

3月25日(火) 詩 編 119編73節~80節
  「 主よ、あなたの裁きが正しいことをわたしは知っています。わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです 」(75節)。人生はいろいろな苦しみで満ちています。その苦しみの種を蒔いているのは、自分であったり、周りの人であったり、取り巻く環境であったりします。しかし詩人は、神がわたしを苦しめた、そのまことのゆえにと言い、しかもそれが正しいと言います。自分で蒔いたにせよ、人から強いられたにせよ、いかなる苦しみであっても、その一番深いところには、その苦しみを与えられた神の目的があり、それは決してあなたに対して悪意を持ってのことではないと、詩人は言います。今、理由なき苦しみにあえぐあなたも、必ず詩人の告白に「 アーメン 」と言える時が来るのです。そう信じていいのです。

3月26日(水) 詩 編 119編81節~88節
  「 わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます 」(81節)。聖書の宗教は「 待ち望みの宗教 」であると言った人がいます。しかし私たちの人生そのものが「 待ち望みの人生 」なのではないでしょうか。私たちは明日に希望をかけ、待ち望みます。合格、結婚、成功、病からの回復・・・しかし私たちの待ち望みは、はかなく消えてしまうこともあります。しかしこの詩人は、神と神の言葉を待ち望むのです。山で遭難した経験のある友は、寒い一夜を過ごしながら、どんなにか太陽の昇る朝を待ち望んだことかと、話してくれました。朝の来ぬ夜はありません。同様に、神を待ち望むことに失望はありません。なぜなら、神こそが根本的な解決であり、解答であり、祝福をもたらす方だからです。神は必ず、あなたの思いを超えた最高の天的祝福を与えてくださることでしょう。

3月27日(木) 詩 編 119編89節~96節
  「 あなたへの信仰は代々に続き、あなたが固く立てられた地は堪えます 」(90節)と、詩人は歌いました。地震の被害の甚大なることを知っている私たち日本人は、地が固く立てられ、いかなる揺れにも堪えると言う詩人の言葉に、簡単に同意できないかも知れません。しかし私たちにはいかなる揺れにも動じることのない固く、しっかりした土台が与えられているのです。イエス様は、山上の説教で「 御言葉という土台 」の上に据えられた家の話をなさいました(マタイ7章24節以下)。どんな洪水にも、揺れにも、困難にも耐える土台・・・私たちがこの土台と結びついているとき、私たちの人生は固い土台の上に据えられた家となります。「 あなたの御言葉こそ、揺るがぬ土台です 」という、「 あなたへの信仰 」を大切に。

3月28日(金) 詩 編 119編97節~104節

103節、「 あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう 」。旧約聖書の中に、戦いに疲れ果てた戦士が一口の蜂蜜でもって元気を取り戻すという記事がありますね。しかし詩人は、あなたの御言葉は蜜よりも甘いと言います。でも正直、時々、御言葉を苦く感じることがありますよね。これは厳しい・・・これはグサッとくると・・・。でも、その御言葉を自分の口の中に入れ、自分の中でアーメンと消化できたとき、あなたの口から発せられるその御言葉は、甘いしたたりを持ったものに変えられているのです。主の真実を知ったうるわしい証の言葉となっているのです。3月25日の身言葉は、まさにそういう御言葉ですよね。

3月29日(土) 詩 編 119編105節~112節
  105節、「 あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯 」。これは、119編の中でも私の大好きな聖句のひとつです。この聖句を題材とした賛美歌もたくさん、ありますね。神の御言葉は、わたしの道を導く光であると言われていますが、サーチライトのように、はるか遠くまで見通せるように照らしてくれるものではありません。私たちはそうであったら、どんなに楽かと思ってしまいますが、神はそのような導き方を私たちには与えられないのです。神の導き光は、私たちの足元の一歩一歩を照らす「 」です。目の前のひと足、ひと足をその都度、照らしてくれるだけです。だから、一歩一歩をその都度、導かれ、踏みしめて行くという仕方でしか、恵みの道を歩むことはできないのです。

3月30日(日) 詩 編 119編113節~120節
 かつて神の民には、ヤーウェかバアルか、どっちつかずに迷っている時がありました(列王記上18章21節)。113節、「 心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します 」は、あの時の預言者エリヤの思いを想起していたのでしょうか。私たちは心と口がチグハグになりやすい者です。口ではお世辞を言っても、心の中は反抗し、無理していても、口先ではハイハイと言うのです。しかし神様に対しては、口も心もひとつにして、まるごと愛する心を持ちたいですね。パウロは自己の内の分裂に苦しみ、助けを求めて叫びましたよ(ローマ7章15節)。