2014年3月23日日曜日


先週の説教要旨 「 先立つ神 」 使徒言行録10章1節~33節 
  今、教会の伝道は転機を迎えていると言われる。一昔前のやり方で伝道しても、人々は教会に集まらない。子どもも大人も生活も忙しくなり、その価値観も多様化している。新しい伝道の道を開くことが急務だと叫ばれて久しい。実は、キリスト教の教会の歴史は、いつでもそういう転機にぶつかっていて、その転機をどのように乗り越えて来たか、どのようにそこで新しい道を開いて来たかということで、教会は生き続けて来たのである。そこでひとつの問題となるのは、それでは私たちの教会は、いつでも新しいことに気がついて、どんなことでもそれが必要なことならば、やってみる勇気があるか、ということだと思う。しかし私たちは自分を変えて、新しい事にチャレンジして行くことになかなか踏み込もうとしないのである。信仰はいつでも保守的になってしまう癖がある。今までやって来たことだけを後生大事に守る。そしてそれ以外のことに考えが及ばない・・・。そういう殻を打ち破る必要がある。使徒言行録は、そういう殻を教会はいつも自分たちの力で打ち破って来たのではなく、いつでも神から与えられる幻によって、むしろ打ち破られて来たのだと告げている。使徒言行録を読んでみると、教会の発展を導いた幻は使徒たちが、あるいは教会が、自分の中から生み出して行った幻ではなく、常に外から与えられた幻、神から与えられた幻こそがその殻を打ち破らせているのを見る。その典型的な例がここに記されている。

9節以下に、ひとつの幻が出て来る。初代教会の指導者であるペトロがおなかを空かせているときに幻を見た。大きな風呂敷のようなものの中に様々な生き物が入っている。その生き物の中にユダヤ人の習慣では汚れていて、食べてはいけないとされるものが入っている。天からの声はそれを食べろと言った。神は3度も同じことを繰り返された。実に丁寧に。しかしそれは、何度でもこういうことを聞かなければならないほど、私たちの心の中に頑なな思いがあるということなのだろう。ペトロはそれを食べる可能性は私たちの中にはないと言った。汚れたものは食べない、それはペトロが身につけていた感覚で、レビ記11章には清いものと汚れたものとの規定があり、そこに食べられるものとそうでないものが記されている。しかし天からの声はそれを食べることを求め、ペトロが繰り返し断ったとき、「 神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない 」(15節)と、神様は言われた。清いとか、清くないとか、これはユダヤ人の考え方から言えば、「 神様のものか、神様のものでないか 」という意味なのである。神様にとっては、清いも、清くないも実は問題ではなかった。清くないとあなたがたが言っているものもまた神様のものなのだ。神様の方では、周りの者が「 これは神様のものではない 」と言っている者も、「 これは私のものだ 」とおっしゃる。だから受け入れろと。神様は清い、清くないにとらわれない大きな自由を持っておられる。その大きな神様の自由の中で働くことが伝道の働きなのである。
  この動物で言い表されているもの、それはコルネリウス、ローマ人、つまり異邦人であった。神に属している者ではない、神とかかわりのない、もう救いから落ちてしまっているとユダヤ人が考えていた人たちだ。コルネリウスが救われるためには、彼を救う神の御業をよく理解する教会が生まれていなければならなかった。しかしその教会の指導者であったペトロが最初かられそれを受け入れる姿勢になっていなかった。ここに記されている物語は、生まれたばかりのキリストの教会が変えられる、変革の物語、教会が変えられるためにどうしても必要であった主イエス様の御業の物語である。

私たちはこれを読みながら、心深く問われる思いがする。私たちも身についた偏見によって、人々を救いとの関わりで差別してはいないかと・・・。私たちも神様から幻を見せていただく必要があるのではないか・・・。神様がその幻の中で見せてくださる第一のことは御自身の姿である。この教会の枠や私たちの狭い考え方の枠などにとらわれないで、私たちはこんな人間はもうキリスト教に関係ないだろうと思って、聖書の話なんかする気もないと思うような者も、「 これはもう私の者だ。この人も私の支配の中にあるべき者だ。この人もまた私のことを知らなければいけない人間だ 」と、神様はおっしゃるのである。神様はいつでも、そういう私たちの枠の外におられる。ここまでと思っているその外に、神様が生きて働いておられるし、そこで私たちを生かそうとしておられる。それに対して、私たちはいつでも限定しようとする。自分の家族に対しても「 もう、こんな人には神様、きっと用はないのだろう・・・」。実際に本人も言う。「 俺は神様なんかに用はない 」と。しかし自分はどんなに神様に用はないと思っても、神様の方はその人のことを必要としておられるのである。そういう神様に対しての幻を、神様のイメージを私たちが持っているか、いないか。そういう神様の幻をいつも神様から与えていただくか、いただかないかということ。それが伝道の転機を乗り越え、常に新しい道を開いていく鍵なのである。ニューヨークのマンハッタンにあるリディーマー教会の決断と行動は、神様のお姿を幻に見る幸いを証している。  (2014年3月16日)