2014年3月2日日曜日


先週の説教要旨 「 迫害者から伝道者へ 」 使徒言行録9章1節~19節 
 オリンピックが終わろうとしている。アスリートが自分のすべてを注ぎ、この日のために努力を重ねてきた姿を見ることは何と感動的なのことか。途中でやめようかとあきらめかけたこともあったが、やめずに全身全霊をそこに注ぎ込んできた。それは見る者の心も動かす素晴らしいことである。しかしもし、全身全霊を打ち込んできたそのことが、とんでもない間違ったことであったとしたら、どうであろうか。想像するだけでも恐ろしくなる。サウロ(ギリシャ語名ではパウロ)は、まさにそのような自体に直面した人物である。サウロはステファノの殺害に賛成し、その迫害の手をさらにエルサレムからダマスコへと伸ばそうとしていた。サウロは律法を遵守する、いわば正しい人であった。彼はキリスト者を認めることができなかった。迫害者パウロの姿を見ていると、本当に残酷なことは、この世の悪人においてではなく、この世の正しい人々において現れるものなのだと思う。というよりも、本当に残酷なことは、正義の名のもとにしか為され得ないと言った方が正確かもしれない。人間は自分の悪を知りながら積極的に残酷にはなれないもの。それは人と人との間でも、国家と国家の間にも言えること。いじめにせよ、殺人にせよ、戦争にせよ、テロにせよ、そこにはその人なりの正義の論理がある。その正義の論理がある時に、人は自らの残忍さに気づかないまま、残酷なことをする。本当の罪深さは罪深いと思わないで罪深いことをしているところにあるのだ。「 正義の戦争 」と言う言葉は、まさにそのことを象徴言葉ではないか・・・。
  しかし神はサウロが迫害者としてダマスコに到着することを許されなかった。ダマスコ途上で復活のキリストがサウロに現れ、彼を地に打ち倒された。教会を迫害していたパウロをキリストが打たれた。キリストの報復の始まりである。しかしキリストの報復は、人間のする報復とは違って、恵みの報復であった。神はよりによって教会の将来に備えて、迫害者を伝道者に選ばれたのである。暴力を振るわれ、仲間を殺されてきた人々の中に、暴力を振るい殺してきた人物を加えられたのである。そして、苦しめてきた人物と苦しめられてきた人々が、一緒に主を礼拝し、一緒に福音を宣べ伝えるようにされるのである。そんなあり得ないようなことが、現実のこの世界において事実として起こったのです。神を信じて生きるということは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることである。神は私たちのちっぽけな頭が考えの及ぶ範囲に留まっていない。そのことを私たちは繰り返し聖書を通して教えられる。神は往々にして、私たちの思いを超えたことを、私たちが絶対に思いつかないような方法で実現される。時として最悪としか思えないことをも用いて、私たちが考えもしなかったようなプロセスを通して、神は最善のものを手渡される。
 四日市の教会に小林金次郎という方がいた。その方はパウロのような経験をした人である。教会に通い始めた自分の娘さんを教会に行けないように日曜日に縄で縛るようなことをしていた。因習の強い地域にあって、娘がキリススト教信仰を持つことでその将来を閉ざすことになるのではないかと案じたのである。だが、娘さんが示した聖書の言葉に目を開かれ、やがて自分も教会に行くようになり、長老に選出され、牧師と共に先頭に立って教会の伝道の働きをするようになったのである。神を信じて生きるとは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることである例だ。
  神がそのように人の思いを超えた仕方で行動なされる時、全てを御自分でなさろうとは思われない。その中に人間を取り込んで行かれる。ここでのアナニアがそうである。アナニアは迫害者パウロのもとを訪ね、彼に手をおいて祈るように神に命じられる。アナニアは抵抗した。しかし主は「 行け 」と言われた。その理由は単純、「 あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である 」(15節)。「 わたしが選んだのだ 」・・・それ以上の理由は与えられない。しかしそれで十分なのだ。主はアナニアに言われた。「 今、彼は祈っている 」と。原文ギリシャ語では「 見よ、彼はいま祈っている 」となっている。祈っている彼の姿を見よ、いや、迫害者をもそのように祈る者へと変えてしまう方をこそ見よと、アナニアを促されたのである。私たちも自分の思いを越えて、神の働きを見る信仰のまなざしを持ちたいと願う。
  アナニアはサウルのもとに赴き、彼を教会に招き入れた。私たちもひとりのアナニアを必要としている隣人のもとに、主に導かれるままに赴いて行く必要があるのではないか・・・。この出来事全体の中で、私たちが自らに問うべきことは、私たちがこの出来事からあまりにも遠ざかったところにいるのではないか、ということである。私たちはともすると、自分の人間的判断で、限りなく豊かな罪の赦しの福音を小さく切り取ってしまい、それにいろいろな条件付けをして、「 この人はこうだから、教会にふさわしくない。信仰を持つはずない 」と、レッテルを貼り、自らその人のアナニアになることを拒んでいるのではないか。神は、教会を迫害してやまなかった、すなわち教会から最も遠くにいたサウロさえ、とらえてくださった。そのことを忘れてはならいと思う。私たちの思いを越えて働かれる方を信じ、私たちもひとりのアナニアとして隣人のもとに出て行こう。                                                     (2014年2月23日)