2014年2月23日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  2月24日~3月2日

2月24日(月) 詩 編 99編1節~9節
   「 主こそ王 」と語り出すこの詩編、主が世界の王として即位されていることを歌う詩編のひとつです。「 主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた 」(6節)。モーセもアロンもサムエルも、そのとりなしの声を神は知っておられました。そうです、とりなす者の祈りに神が答えてくださる、それが神と神の民をつなぐ「 」です。「 とりなし 」と言う一点において、神の民は神の民であり続けることができるのです。私たちの間に祈りがあるということが教会のいのちです。私たちの先頭に立ってとりなしの祈りを捧げ続けていてくださる大祭司イエス様のもとで、私たち教会は生かされ続けているのだということを忘れないようにしましょう。

2月25日(火) 詩 編 100編1節~5節
  この詩編は、礼拝への招きの賛歌です。私が最初に教会に通い始めた高座教会の礼拝で、当時、招詞として用いられていました。なので、私が全節を覚えた最初の詩編になりました。「 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ 」(3節)。礼拝でこの言葉を投げかけられるとき、襟元を正される思いになりました。私たちは神に造られた者であることをわきまえるとき、初めて「 生きる 」スタートラインに立つのです。陶器師は粘土をもって壷を造ります。目的をもって作ります。だからその目的を知らずにいることは、造られた意味を失っていることになるわけです。神は、私を何のために造り、何に生かそうとしておられるのか、そのことを日々問い、日々それに応えるように生きる。それこそが広い意味での私たちの礼拝の生活です。

2月26日(水) 詩 編 101編1節~8節
  この詩編は、王が即位した時の誓約を歌ったものと考えられています。「 わたしは家にあって、無垢な心をもって行き来します 」(2節)。人は公の場や、見知らぬ人の間では、結構正しく振舞うものです。けれども、自分の家ではそれとは違った姿で生きているようなところがあります。家族には遠慮がないから、素の自分がそのまま出ているということでしょうか。しかし、人の真価は自分の世界を正しく歩むかどうかにかかっていると言えるのです。世間の人があなたのことをどう思っているかと言うことよりも、自分の家で、家族にどう見られているか、それこそ大切な視点です。寝起きを共にし、共に食卓を囲む親しき者の間でどう生きるか・・・。インマヌエルの主は、あなたと同じ屋根の下で共に住んでおられます。

2月27日(木) 詩 編 102編1節~29節
  この詩編の表題には「 心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩 」と、私たちの心を惹く言葉が記されていますね。「 嘆き 」の詩編に属すると言われています。「 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした 」(18節)。すべてを喪失したとき、祈りは悲鳴になり、絶叫になり、切実な問いになります。ちょうどヨブ記のヨブがそうであったように・・・。実は神が最も遠く思われるその時、祈りは神のふところ深く届いているのです。手に多くのものを握り締めたままで、祈りはどこにも届きません。喪失の中でこそ、神のもとに深く届くようになるものがあるのです。

2月28日(金) 詩 編 103編1節~22節
   この詩編は、旧約聖書における最も崇高な「 讃美歌 」のひとつと言われています。「 天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい 」(11節)、素敵な言葉です。「 左手に富士が見えます 」とのアナウンス。しかし一面の雲で、どのあたりだろうと目を凝らしても見えない。もう通り過ぎたかとあきらめて、目を上げたとき、見えた。雲の上に半身を突き出した冨士に、「 おおっ 」と思う。そんな経験はありませんか。神のもとに生きる者はまさしくこの経験をします。神の恵みの大きさに驚き、神の慈しみの大きさに泣かされます。神の忍耐の大きさに打たれ、謙ることを知ります。神はいつもその計り難いスケールによって、私たちを打ち砕き、かつ再生してくださるのです。

3月1日(土) 詩 編 104編1節~35節
  この詩編は、神の創造の御業に対する賛美の詩編です。「 雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる 」(3節、4節)。風雲急を告げるような状況にも、その雲は主の足もとに置かれている車でしかないと言うのです。激しい風雨をもたらす黒雲も、主のご臨在を運ぶ車に過ぎないと言うのです。私たちが黒雲に覆われたとしても、その黒雲の上をさらに「 主の慈しみ 」が覆っていることを忘れないようにしましょう。

3月2日(日) 詩 編 105編1節~45節
 この詩編は「 ハレルヤ詩編 」と呼ばれ、高らかに主を賛美し、その賛美の中に読者を招き入れようとしています。「 主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ 」(4節)との呼びかけから始まって、創世記や出エジプト記の出来事を思い起こさせています。16節~24節にはエジプトに売られたヨセフのことが記されています。「 奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された 」(17節、18節)。ヨセフは、窮乏に満ち満ちた生活の中で御力を乞い求め、そこで神を知って行きました。神の御顔を求めることへ私たちを強く促すという点において、窮乏もまた神の祝福につながっています。