2014年2月9日日曜日


先週の説教要旨 「 ステファノの死 」 使徒言行録7章54節~8章3節 
   ステファノの長い弁明が終わり、今朝の箇所ではステファノの弁明に腹を立てた人々の手によってステファノが殺される。ステファノは相手の罪を鋭く糾弾した。しかしステファノの糾弾は、私たちがよく体験する糾弾とは違って、愛をもっての糾弾であった。本当に相手のことを思っているからこそ、厳しいことも語ったのである。ステファノが愛をもって語ったことは、彼が殺される時に祈った祈りで分かる。「 主よ、この罪を彼らに負わせないでください 」。この祈りはイエス様が十字架の上で祈られた祈りをなぞっている祈りである。それは愛の極まった姿である。ステファノは伝道に生きた。ユダヤ人に対する愛に生きた。愛するが故にユダヤの人々の罪を徹底して指摘することをやめなかった。罪を語るということは大変なことである。人間というのは神の言葉をいつも喜んで聞くわけではない。むしろ怒りを込めてでしか聞くことのできないところに一番恐ろしい人間の罪が現れてくる。
 このステファノ姿から見えてくることが2つある。そのひとつは「 伝道することは愛することだ 」と言うこと。使徒言行録は教会の歴史を語る。その歴史は伝道の歴史であり、同時に愛に生きた教会の歴史でもある。伝道するということは、愛するということとひとつのこと。私たちは愛することと伝道する、つまりその人に福音を語ってあげるということを別々の事であるかのように考えてしまう。私はあの人を愛しているけれども、あの人を救おうとは思わない。そういう妙な考え方で人を愛することがある。しかしキリスト者にとって、その人を愛すると言ったらその人に福音を語ってあげるということになるのだ。私たちが本当に愛するならば、その愛する人に福音を語ることをやめるわけには行かないし、逆に言うとある人に伝道するとき、その人を愛さないで伝道することはできないのである。しかしこれもしばしば起こることだが、伝道というのは自分たちの勢力を拡大することだと思っている場合には、いくらでも愛さなくても伝道できてしまう。それは今日までキリスト教会が犯してきたひとつの罪である。
   もうひとつ、ステファノの姿から見えてくることがある。それは、そういう使徒言行録の伝道と愛に生きた歴史は、同時に迫害の苦しみを語る歴史であったということ。このことは、私たちがもう一度よく知っていなければならないことである。私たちがこの世の中で本気で愛に生きようとすれば、私たちは何らかの苦しみを引き受けることになるということなのである。例えば、日本の国を愛によって平和な国に作ろうとするならば、軍備を持たない方がよいに決まっている。しかしその場合、万が一の時は、日本人が皆殺しになる、その覚悟をしていなければダメだということである。そうでなければ愛による平和な国は作れないだろう。本気で愛に生きようとすれば、苦しみを引き受けることを覚悟しなければならない。それは信仰においても同じである。軍備などと大げさなことを言う必要はない。私たちが愛に生きよう、この人に伝道しよう、この人が救われるまで私は徹底して関わり続けるのだと決心すれば、それはすぐに何らかの苦しみを担う覚悟をも求められることなのだと、すぐに分かるだろう。私たちは経験的にそれを知っている。しかし私たちは頭で分かっていても、現実には中々、人を愛することができない。愛について聞きながら、家に帰ってすぐに誰かと角、突き合わせてしまう。どうしてなのか。
  それはステファノが見た幻を見ていないからなのである。ステファノは、「 天が開いて、人の子が神の右に立っておられる 」幻を見た。使徒信条の告白のように、キリストは座してはいない。ステフアノを受け止めようと立ち上がり、身を乗り出しておられる。このキリストの幻を見ることがなければ、私たちは愛に生きることに挫折してしまう。なぜなら愛は損得計算をした場合、損することだからである。する。私たちには損する愛には生きられないという性根がある。どんなにきれいなことを言っても、自分がただ苦しむだけの愛には生きることができない。自分はあの人のために苦しんでいるのだと思っていても、実はどこかで自分自身のその苦しみの埋め合わせはつけている。そしてそれによって自分自身を支えているのである。愛というのは、地上の生活だけでは帳尻が合わないもの。愛の帳尻が合うのは、天においてキリストに迎え入れられる時なのである。最後まで報われない愛に生き抜かれた主が、「 あなたはよく私のあとに従って来たね、あなたの労苦のすべてを私は知っている 」と言って、この方が受け入れてくださるところで、はじめて私たちの愛の歩みは報われるのである。その幻をステファノのように信仰によって見ているのでなければ、私たちは愛に生き抜くことはできない。ステファノは、死ぬ間際に「 主イエスよ、わたしの霊をお受けください 」と祈った。ステファノは自分の霊を委ねるだけではなく、今、自分を殺そうとしている人たち、愛したがゆえに福音を語ったこれらの人々のことをも神に委ねたのではないか。委ねた人々の中に、のちにパウロと呼ばれ、伝道者として大きな働きをするサウロがいた。使徒言行録は、教会は真に愛に生きるがゆえに引き受けなければならなくなる苦しみを覚悟する、最初からそこに生きていたと証言する。そのようにして教会の伝道は果され、またパウロに見る新しい展開も生まれて行ったのだと語る。 (2014年2月2日)