2014年2月23日日曜日


先週の説教要旨 「 走り寄る伝道者 」 使徒言行録8章26節~40節 
  エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官。彼は表向きの人生の履歴書において、申し分のない成功を収めている人である。今で言えば、一代で財務大臣の要職にまで登り詰めたということになる。思いのままになる強大な権力、有り余る財産、すべてを手に入れた幸運な人。しかし高ぶってはいない。「 手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」とフィリポに頼んでいるように、居丈高ではなく、紳士的で謙遜な誰からも好感を持たれる人格者のようである。しかし彼は、本当に幸福な人間なのか・・・。確かに外側から見た限りではいかにも幸福そうに見える。しかし内側はうめきにも似た何かを抱えていたのではないか。だからこそ、1500キロも離れたエルサレム神殿の礼拝に、巡礼に来ていたのではないか。宦官は女王の側近として女王を補佐する役目があった。その政務に集中するため、結婚し家庭を持つことを許されなかった。去勢されられたのである。男性でも女性でもない、そのために宦官は、地位はあっても、本音のところでは人間扱いされなかったのである。どうして彼がそういう人生を選ぶようになったのか、聖書はその理由を語っていない。その道を選ばざるを得ない事情があったのだろう。財務を一手にまかされるまでに登り詰める上で、彼は相当なことをして来たことだろう。悪しきことにも手を染め、競争に勝つために他者を蹴落とす非道なこともして来たであろう。同じ仲間内であっても出し抜きや裏切りがあって、いつも疑心暗鬼、緊張の連続。家庭のない彼にとっては、心を許し、うち解けて話し合える人もいない。この世に頼れる者は自分しかいない・・・。そしてどこかに根本的な赦しを願い求める思いが渦巻いている、それが彼の内面であり、心の履歴書であったのではないかと思う。跡継ぎがいない彼にとって、自分一代での成功がどれほどの意味を持つと言えるのか。死んでしまえば、自分を覚えてくれる人もいなくなる。空しく、寂しい気持が頭をもたげたとしても何ら不思議ではない。それらの心のうずきが癒されることを願って、彼はエルサレム神殿に巡礼しに来たのであろう。どこかで伝え聞いていたイスラエルの神に対する信仰、その神と出会う中で、自分も心の傷を癒されたいと願った、それがこの巡礼の旅。
  ところが、どうか。エルサレムで彼を迎えたものは、彼を拒む宗教の姿だった。「 宦官は主の会衆に加われない 」(申命記23章2節)という律法の掟は、彼に門前払いを食らわせた。心に抱えた罪の重荷を下ろすこともできず、もと来た道を戻らなければならない宦官。しかし彼はエルサレムの都で買ったと思われる高価な聖書の巻物を手にしていた。聖書を手に入れていたことが道を開くことにつながる!
  宦官がガザまでやって来たとき、そこにフィリポが神に遣わされて来る。神はこのひとりの宦官の救いのために働かれる。フィリポを北のサマリアから最南端のガザにまで呼び出されたのだ。馬車に近づいたフィリポに聖書を読む声が聞こえる。イザヤ書53章、苦難の僕の箇所だ。求められるままにフィリポは聖書を説き明かす。「 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた 」(イザヤ書53章5節)。この預言の言葉はイエス様の十字架において成就した。あなたがこの方を信じて受け入れるならば、あなたの罪もこの方において赦され、癒されるのだと。宦官の心は「 だれが、その子孫について語れるだろう 」(33節)に釘付けになったであろう。ここに、自分と同じ悲しみを知っている方がいるではないか・・・と。抜きつ抜かれつの競争による休む間もない精神的緊張、出し抜き・裏切りの恐怖、疑心暗鬼、孤独、権力闘争の渦中にあって犯してきた罪の数々。どこかで根本的な赦しを願う心があり、激しく魂がうめいている。しかしそこに声が聞こえてくる。「 あなたの痛みは癒される。傷は癒される。彼の受けた傷によって・・・」。信じた彼は洗礼を受ける。そして洗礼と共に新しい人生の道が開かれる。この新しい道は、内側に悩みを抱えたたった一人の寂しい旅ではなく、すべての思い煩いをこの方に委ねて神と共に生きる喜びの旅路だ。宦官が洗礼を受けると、彼を信仰に導き洗礼を授けたフィリポが、主の霊に連れ去られていなくなる。不思議なことだ。フィリポはまさに、このひとりの宦官のためにだけ、北のサマリアから最南端のガザにまで遣わされて来たのだ。フィリポの姿が見えなくなっても彼は喜びにあふれて旅を続けた。神が共におられるから・・・。心躍る思いでイザヤ書もそのまま読み続けたに違いない。そして先を読み進めていく次の言葉に出会う。「 主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない 」(56章3節~5節)。主の十字架の出来事が、この預言の言葉を成就させた。律法の規定を越えて新しい恵みの世界が開かれる時が来たのだ。聖書に書かれているこういう出来事は、それが私たちにも同じように起こるために書かれている!洗礼を受けている私たちにも、このことがもう起こっているのだ。 (2014年2月16日)