2014年2月16日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  2月17日~2月23日

2月17日(月) 詩 編 92編1節~16節
  この詩編は、安息日にレビ人によって神殿で歌われたと考えられています。その神殿は、第二神殿と呼ばれる捕囚から戻って来た民が再建した小ぶりの神殿です。捕囚からの救いの御業に触発された感謝、賛美と教訓が混在しています。「 主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしません 」(6節、7節)。愚かな者、無知な者は、自分の思い、自分の計画の中だけで生きようとします。思い通りにならず、計画が崩れると怒り、絶望してしまいます。しかし信じるというとは、神の御業の大きさを信じるということであり、神のご計画の深さを信じるということです。たとえ自分の計画が破綻したとしても、神の大きな計らいの中になお、自分が生かされていることを信じるのです。

2月18日(火) 詩 編 93編1節~5節
  捕囚から民を解放させられた神の御業を天地創造の御業と重ねて、それを神の再創造の御業としてとらえている詩編です。「 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる 」(3節)。私たちの人生にも吠えたける潮、荒波が押し寄せます。健康、財産、自分が大切にコツコツと積み上げてきたそういうものが波に飲み込まれてしまうことがあります。しかしその大波の中で、一つの賛美が繰り返し私たちに聞こえてきます。「 大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主 」(4節)と・・・。荒波がいくら吠えたけっても、天を覆すことはできません。天を濡らすことさえ、できないのです。そのような方が、私たちと共に人生を歩んでいてくださることこそが私たちの力です。

2月19日(水) 詩 編 94編1節~23節
  この詩編は、報復の神にイスラエル民族が訴えているという構図を持っています。イエスキリストが赦しの神として顕現してくださったことを知る私たちには、1節の「 主よ、報復の神として、報復の神として顕現し 」という言葉にギョッとしてしまうかもしれませんね。「 主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう 」(17節)。もし神がおられなければ正しいことを求めることは無駄なことです。力の強い者だけが勝つのです。もし神がおられなければ、どんなに忍耐をしても報われることはないでしょう。もし神がおられなければ、人はあきらめて沈黙するしかありません。しかし神はおられます。世の片隅の家畜小屋に来られた神は、どんなに貧しい者の声にも耳を傾け、応えてくださいます。

2月20日(木) 詩 編 95編1節~11節
  この詩編95編から100編までは、今日の教会の礼拝の招詞として用いられています。実際に、イスラエルの民もこれを礼拝の招詞として用いていたようです。詩人は、かつてイスラエルの民が心を頑なにした「 あの日 」、主を試みた「 あのとき 」、心の迷う民であった「 40年の間 」を想い起こし、「 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない 」(7節)と、語りかけています。あなたにとって、「 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない  」と思う、その想いは何でしょうか。この詩編を読んだ「 今日 」は、その決心をするための日かも知れません。

2月21日(金) 詩 編 96編1節~13節
  「 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ 」(9節)と語りかけられています。キリスト教信仰の一つの特質は、神の御前にひれ伏すということです。新興宗教をはじめとする世の多くの宗教は、神に自分の前にひれ伏すことを要求します。自分の願いを聞くべきとして、ひれ伏させる、いわゆるご利益、人間のエゴが信仰の目的であって、神はそのための手段でしかないのです。キリスト教信仰は、人間が神の御前にひれ伏すことで、人間の思いを越えた新しい展開が、神によって開かれることを信じます。ひれ伏すことで道を開いて行く信仰です。

2月22日(土) 詩 編 97編1節~12節
  「 神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる 」(11節)。神はわたしたちの人生という名の畑に種を蒔いてくださいます。一粒、一粒、ぽつん、ぽつんと、途切れることなく種が蒔かれています。そして振り返ってみれば、それは一筋の直線になっています。神は信じる者に光を、より頼む者に喜びを種蒔いてくださいます。人生の長く辛いこの道に、ひとつひとつ、ぽつんぽつんと、しかし決して途切れることなく、その光をひとつひとつ辿りながら私たちは人生を導かれて行くのです。

2月23日(日) 詩 編 98編1節~9節
 「 新しい歌を主に向かって歌え 」(1節)と言われていますが、この新しい歌というのは、文字通り、次から次へと新しい歌を作って歌え、ということではないでしょう。主の恵みは日々、新しくされて、私たちのもとに届けられています。まるで尽きぬ泉のように、日々新鮮なものとして・・・。だからそこで生まれる賛美も、日々、新しい心で歌われる賛美となるのです。神の恵みをみくびってはなりません。もっと目を大きく開き、深くさぐって、その限りなき大きさに驚嘆しましょう。詩人は途方もない賛嘆の声をあげているではありませんか。ただ歌うだけでは物足りず、琴やラッパを動員し(6節)、さらには潮にも手を打ち鳴らさせ(8節)、山々をたたき起こして、喜び歌わせないと気がすまないほどですよ(8節)。