2014年2月16日日曜日


先週の説教要旨 「 悪事を捨てて、主に帰れ 」 使徒言行録8章4節~25節 

大雪になって、今朝は大変なことになっている。特に私たちの教会では、礼拝後に教会員総会が予定されているから、果たして成立するかどうか、心配だった。信仰を持たない人たちは、こういうとき、「 運が悪い 」とか、「 ついていない 」と言って片付けるのだが、信仰者はすべてのことは神のお許しの中で起きていると信じているので、「 なぜ、よりによって、この日に大雪なのですか 」と、神に問うだろう。私たちは嫌な状況に自分が置かれてしまった場合、「 なぜ 」なのですかと問う癖がついているかも知れない。しかしそこでちょっと考え方を変えて、「 なぜなのですか 」ではなく、「 何のためなのですか、こういうことになったのは何かの目的があるはずです。それは何のためですか 」と、問いかけることが大切なのではないかと思う。神に苦情を申し立てるように問うのではなく、聖霊による神の導きを信頼するところからの問いかけをするのだ。そのとき、道も開かれて行く。

4節に、「 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた 」とある。ステファノの殺害をきっかけにして、エルサレムでキリスト者たちへの大迫害が始まった。フィリポをはじめとする、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者たちは、エルサレムの都を後にして出て行った。そういう彼らが逃げた先々で福音を告げ知らせながら巡り歩いたと言うのである。彼らは、迫害で散らされるという状況を「 なぜですか 」と神に問うのではなく、「 何のためにですか 」と問うたに違いない。そうでなければ、逃げながらなお、伝道するという選択はあり得ないだろう。フィリポは追うに追われてサマリアの町に逃げてきたとき「 何のためにですか 」という問いへの答えが示される。使徒言行録1章8節のイエス様の約束の言葉、「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる 」が思い起こされるのである。フィリポは、自分たちが迫害に遭い、エルサレムの都を離れて、散り散りばらばらにユダヤとサマリアの全土に散らされて行くことになったとき、これを聖霊の導きの中にあることとして、前向きに受け止めた。だから伝道し続けたのである。

私たちは聖霊の導きというものをどのように考えているだろうか。聖霊の導きというのは、いつも私たちにとって、善きことをもたらすものと誤解していないだろうか。聖霊の導きの中にあるならば、こんな嫌なことは起きるはずがない・・・と。だが、フィリポたちが体験した聖霊の導きは、そういうものではなかった。住み慣れた地から追われ、働きの中心をも担っていたエルサレムの教会交わりからも引き離される・・・。聖霊の導きは、私たちの期待だとか、考えることを越えている。

星野富広さんの詩画集に「 はなしょうぶ 」というものがある。「 黒い土に根を張り、どぶ水を吸って、なぜ、きれいに咲けるのだろう。私は おおぜいの人の愛の中にいて、なぜ、みにくいことばかり、考えるのだろう 」。人間、自分がどういう環境に置かれているか、その環境が問題なのではない。自分が問題なのだ。与えられている環境を自分がどう受け止めるか、もし与えられた環境が、たとえ嫌な環境であっても、これも聖霊の導きの中にあることと、信仰をもって受け止めるならば、そこで花を咲かせることができる。しかし、どんなに好条件の環境が与えられていたとしても、こんなものは聖霊の導きとは思えないと言って、後ろ向きになるならば、花は咲かせない。聖霊の導きの中にすでに生き始めている私たちが、日々、経験する様々な出来事というのは、神のご計画に沿って与えられている出来事なのである。聖霊の風は、勝手気ままに吹くのではなく、神のご計画に沿って吹く。だから私たちは、日々いろいろな出来事、嫌な出来事にも遭遇するが、創造的なプラス思考を持ってそれを受け止めてよいのである。

そういう聖霊の導き、働きというものが私たちに与えられているならば、私たちはそれに抗うのではなく、それに委ねて行くということが正しい態度である。だが、ここに登場してくるシモンという男は、聖霊の働きを目の当たりにしたとき、その力を金で手に入れようとした(18節、19節)。聖霊の力をお金で買おうとする、その本質にあることは、聖霊を自分の思うように操ろうとする心である。聖霊に信頼して従うというのではなく、聖霊を自分の思う通りに操ろうとする心。それは信仰とはかけ離れた発想でしかない。ここには、興味深いことも記されている。「 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかった 」(16節)と言うのである。この箇所を論拠に、洗礼を受けていても、聖霊はまだ受けていないキリスト者もいるのだと主張する人たちがいる。だが、私たちはそうは信じない。ここでは、ペトロたち、使徒がエルサレムから来て、人々に手を置くことで、聖霊は降り、その人たちの洗礼の業は完結しているのを見る。教会が洗礼を授ける資格を持つ人間として(ここの場合はペトロだが)、きちんとした手続きを経て立て教職者が洗礼を授けるならば、その洗礼は聖霊をも受けている完結した洗礼なのである。だからあなたが洗礼を受けたときから、あなたはすでにこの聖霊の導きの中に生き始めているのである。(2014年2月9日)