2014年2月2日日曜日


先週の説教要旨 「 いつも聖霊に逆らい 」 使徒言行録7章44節~53節 

ステファノの説教の最後の部分。ここには、これまでステファノが語っていなかった事柄が語られている。それは神殿について。ステファノを裁判に訴えた人たちは、「 この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません 」(6章13節)と言っていた。それに対して弁明したのが今朝の箇所である。

ステファノは、神の御臨在を証しする幕屋が神殿として定着して行った過程を語りつつ、そこではっきり言う。「 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません 」(48節)。それは預言者も言っていることだと、預言者イザヤの言葉(66章1節、2節)を引用する。神殿を建てたのは王ソロモンであるが、ソロモンもまた同じことを語っている。「 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。・・・あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください 」(列王記上第8章27節以下)。神殿を建てたソロモンも、預言者イザヤも知っていた。いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みにならないと。しかしそれでも、神は自ら謙遜になって、そこに身を置くことをよしとしてくださった。だから神殿で神を礼拝することができる。それは神の謙遜のなせる業であった。ならば、神殿で神を礼拝するにふさわしい人間の姿とは、神の謙遜に見合う人間の謙遜な姿勢となるだろう。それなのに、あなたがたはおごり高ぶって、神殿で神に仕えると言いながら、神の権威をまるで自分たちの権威であるかのように盗み取って、神殿に君臨し、ついには神の名によってイエス・キリストをも裁いて、殺してしまった。とんでもない間違いをしているではないか。そう、ステファノは指摘する。

神殿において求められる人間の姿は謙遜であるが、イザヤ書66章2節の後半には「 わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人 」と、ある。霊の砕かれた人というのは、列王記にも出て来た言葉で言うと、罪を犯して悔いている心、詩編第51編で言うならば、悔い改めのゆえに砕かれている魂を神の前に差し出している人である。そのような人は私の言葉におののいて聞くことを知っている。そういう者こそ、神の顧みに値するのである。神殿、神殿と言って、神殿の権威を振りかざしながら、神殿において最も大切な姿勢をあなたがたは失っているのではないかと、神はステファノの口を通して語りかけておられる。

 これは、私たちも大切にしなければならないことであると思う。教会を訪ねて来られた方と話をしていて、よく耳にするのは「 礼拝に来て皆さんと一緒に礼拝してみませんか 」と言ったときに、「 私のような者は、皆さんと礼拝に出られるような立派な人間ではありません 」という言葉である。私は「 そんなことありませんよ 」と、すぐには否定せずに、そういう感覚は大事なことですと話す。神の御前における自身の欠けを知っており、謙遜である姿勢は失ってほしくない。しかし、それでもなお、神の憐れみを自分は必要としているのだと、憐れみを求めて、神の御前に進み出ることをこそ、神は私たちに求めておられる。それが礼拝者の姿。

ステフアノは、そういう姿勢とはかけ離れてしまっている大祭司とその仲間たちに向かって言った。「 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです 」(51節)。ユダヤの人々は、体に子どもの時から神の民として傷を受けている。誇り高き傷で、肉が裂かれている。だがステファノは、あなたがたの心と耳に割礼が与えられていない。聴く耳がふさがっていて、裂かれていないと言う。そのことによって、心も神の言葉に向かって閉ざされてしまっている。神の言葉におののかなくなっていると言う。「 心に割礼を受けて、苦しむ人、霊の砕かれた人・・・わたしの言葉におののく人 」・・・。私たちはどうなのだろうか。神に顧みられるにふさわしい人間なのだろうか。私たちは苦しみを好まない。小さなことですぐ悲鳴をあげる。霊が砕かれることを好まない。頑なになり、あなたが私たちを砕こうとすることを拒む。あなたの言葉を聞くことを好まず、御言葉のゆえにおののくことを好まない。それなのに顧みられることは願っている・・・。一体、これに一致する人が私たちの中にいるだろうか。主イエス様以外、誰がこの御言葉にふさわしいだろうか・・・と思う。だからこそ、私たちはイエス様によりすがって、イエス様のとりなしを切に求めるのだ。「 砕かれた魂を私に与えてください 」と、主の御名によって、父なる神に願うのである。

賛美歌60番「 どんなにちいさいことりでも 」は、2番に「 よい子になれない私でも神様は愛していてくださるって、イエス様のお言葉 」という歌詞がある。ある幼稚園の女の子が病気で高熱にうなされながら、この歌を口にして、それを聴いた母親が信仰に導かれた。その子は、神殿におけるふさわしい人間の姿を幼い魂ながら、とっていたのだ。神に顧みられる姿を・・・。 (2014年1月26日)