2014年1月19日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  1月20日~1月26日

1月20日(月) 詩 編 64編1節~11節
   この信仰の詩人は、「 毒を含む言葉を矢としてつがえ 」た人々の悪事を神に訴えています。そのような「 敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください 」(2節、3節)と訴えます。戦時中、自分の住んでいた地域が毎日毎晩、太平洋上の敵艦から艦砲射撃を受けた人がいます。ある晩、皆が身を隠しているとき、ひとりだけ集中砲火に身をさらして堤の上を駆け抜けている人がいたそうです。それはその人の母でした。その人の名前を呼びながら命がけでその人のことを捜していたのだそうです。この体験がきっかけとなって、その人は「 神の愛 」を見出すに至ったのだそうです。身を挺してでも我が子を敵の脅威から守ろうとする愛、あなたはこのような愛に守られつつ、今日一日を生きるのです。

(火) 詩 編 65編1節~14節
   この詩編は、罪が赦される喜びの満ち溢れを歌っています。それは自然も一緒になって神を賛美していると感じる(14節)ほどに、この世界を見る目を新しくしています。4節の「 いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように 」は、罪が贖われ、御側近くにいられることの何ものにも変えがたい幸いを言い表しています。あなたもこのような幸いの中のひとりに数えられているのですよ。

1月22日(水) 詩 編 66編1節~20節
   この詩編の背後には、出エジプトという苦難と救出の出来事が思い起こされています(6節、12節)。神は時として、ご自身の民を苦難の中を通されることがありますね。「 神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された 」(10節)。キリスト者の生涯は、ハンモックの中で居眠りができるようなものではなく、溶鉱炉の中での精錬であり、修練です。銀が火で練られるように、人の心も苦難の火によって鍛えられます。しかしその火はすべてを焼き尽くして消滅させてしまうことはありません。ただ不純物を取り除けるためだけの火だからです。私たちは苦難の火と二人三脚で人生を歩みます。そのようにして、私たちのうちに「 神の御子の似姿 」が作り上げられて行くのです。

1月23日(木) 詩 編 67編1節~8節
   1節に、伴奏付き。賛歌。歌とあるように、この詩編は神殿の礼拝においてよく歌われた詩編のようです。この詩編の終わりは「 神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように 」(8節)と、自分たちの救いが全人類への救いへと広がることへの願いになっています。時として、私たちの信仰は「 わたしの神、私たちの神 」という領域にとどまってしまいます。しかし神は、全人類の神、すべていのちある者の神なのです。次々と敵を生み出していくような世の中にあって、「 全人類の神 」という信仰を掲げて、私たちは今日もとりなしの心と業に生きましょう。

1月24日(金) 詩 編 68編1節~36節
   この詩編は、壮大さと描写の美しさにあふれています。神をほめたたえる賛美の歌とか、神の勝利の歌とか言われています。「 主は言われる。『 バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう 』」(23節)。昔、神はエジプトからご自身の民を約束の地へと救い出されました。ここに示されているように、神は連れ帰る神です。あなたが今、どのような山の高みに取り残されていようとも、どのような海の深みに引き込まれていようとも・・・。この世に神の手の届かない地点はありません。いかなる失意の最果てにあったとしても、祈りの旗を立てて揺るがず待ち続けたいと思います。神が連れ帰ってくださるその時を。

1月25日(土) 詩 編 69編1節~37節
   詩人は深い悩みの中にあって祈っています。死を意識するような病の癒しと罪の赦し、そして偽りの非難をする者からの救いなど、一度に重なった種々の苦難からの救出を訴えています。子どもの頃、プールでおぼれかけた経験のある私には2節の言葉は強烈なインパクトをもって迫ります。「 神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました 」。私たちの人生を様々な濁流が襲う時があります。そのとき、心の内で密かに自分の支えとしていたものが流されて行きます。そして本当に自分の支えとなるべきものがはっきりとその姿を現してきます。幻影でない、本当の支えが、です。その方に向かって「 わたしを救ってください 」と私たちは切実な思いで叫ぶことができるのです。そしてその叫びは聞かれる叫びとなります。

1月26日(日) 詩 編 70編1節~6節
 迫害からの速やかな救助を求めるこの詩編は、詩編40編14節から18節とほぼ同じです。私たちは皆、神に対してはせっかちになりがちですね。「 速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください 」という気持を抱いたことのない人はいないでしょう。しかし神にとって、遅れると言うことは、決して拒否ではないのです。マリアとマルタの姉妹は、弟のラザロが重篤な病を患った時、イエス様の到着が遅かったことを嘆きましたね(ヨハネ11章)。しかし姉妹たちは主が自分たちの想定よりも遅かったことによって、かえって神の栄光を拝する結果を得たのでした。神が遅いというのは、最善のときが満ちるのを神が待っていてくださるのだと考えるべきことなのです。