2014年1月12日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  1月13日~1月19日

1月13日(月) 詩 編 57編1節~12節
 この詩編は表題に示されている通り、ダビデがサウルを逃れて洞窟に隠れていたときに詠われた詩編です。ダビデがエン・ゲディの洞窟に隠れていたとき、サウルが用を足そうと洞窟に入って来ました。しかしダビデはサウルに手をかけずに、自分にはサウルへの敵意がないことのしるしとして、ただその上着の端を切り取っただけであったという出来事がありましたね(サムエル記上24章)。ダビデは洞窟に身を隠すことが多かったようですいが、暗い洞窟の中でダビデはいつも何を想っていたのでしょうか。彼の行動を見る限り、恐れの心を増幅させるよりも、自分は主の御手の中にあるという信仰を深めて行ったようです。彼は洞窟内の壁を見つめ、自身の困難な状況と向き合いますが、彼が見ていたものは困難な状況の背後に置かれている御手だったのですね。あなたは困難な中で、何を増大させますか・・・。

1月14日(火) 詩 編 58編1節~12節
  表題が示すように、この詩編は神殿の礼拝で賛美歌として用いられたようです。もし今日の「 ○○賛美歌委員会 」であったら、『 賛美歌 』を編集するときに、このような賛美歌は採用しないでしょうね。激しい呪いと報復の歌だから・・・。9節、10節などは、よくもこういう言葉が思いつくものだと妙に感心してしまいますが、でもそれほどに「 憎まずにはおれない痛み 」があるのですね。そのような痛みを率直に神の御前に注ぎ出すことが許されている(人に対して注ぎ出すのではなく)ということが、この詩を通して、私たちが示されていることなのだと思います。ボイラーに取り付けられた安全弁と言っては言葉が軽すぎますが、私たちはこのような思いを神の御前に注ぎ出すことによって、自らの手で報復の血を流す悲惨から守られるのです。最後は、神がこの地を裁かれるのですから(12節)。

1月15日(水) 詩 編 59編1節~18節
  詩編59編は、「 サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見晴らせたとき 」の作であることが分かります。息も止まるような状況です。7節の「 夕べになると彼らは戻って来て、犬のようにほえ、町を巡ります 」という言葉は、夜のとばりと共に、詩人の不安は深まりのときを迎え、眠れぬ夜を幾度も過ごしたことを暗示します。しかすし、どんなことがあっても、どんなにつらく、苦しい日々でも、この詩人が心に決めて実行してきたことがあります。それは「 朝明けの歌 」を歌うことでした。「 わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います 」(17節)。神をほめたたえることによって、一日を生き始める人は、必ず力強い日々を送っています・・・・。私の知るところでは。

1月16日(木) 詩 編 60編1節~14節
  この詩の背景は、2節の表題のところに丁寧に説明されています(サムエル記下8章参照)。「 神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください 」(3節)の「 突き放し 」という言葉に目が留まりますね。確かに神は、悔い改めない頑なな魂を一時的に「 突き放 」されるように想われます。しかしそれは「 救う 」のを拒まれるということではなく、「 救いのために 」拒まれるのです。私たちは時として、神に拒まれ、突き放された感じることがあるかも知れません。しかし、それは神以外のどこにも真の憩いがないということを思い知らされるための導きであって、決して拒まれたのではないことを忘れないようにしましょう。

1月17日(金) 詩 編 61編1節~9節
  詩編61編は心がくじけるときの体験を語っています。「 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください 」(3節)。高い岩は大きな困難、試練を意味しています。それは行く手を妨げるものとして、目の前にそびえ立っています。詩人の体験は深刻なもので、「 地の果てからあなたを呼びます 」と言っています。携帯電話の画面に「 圏外 」と表示された場所では、助けを呼ぶことはできません。しかし私たちの神には「 圏外 」というものはありません。主を呼ぶ声は必ず届き、行く手を塞いでいると見えた岩の高さは、そのまま神の恵みの高さになります。

1月18日(土) 詩 編 62編1節~13節
 預言者ハバククは「 全地よ、御前に沈黙せよ 」(2章20節)と呼びかけています。その呼びかけに応えるかのように、この詩編62編は「 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ 」(6節)と言っています。大きな沈黙の中からこそ、人の心に伝わる音は生まれるのだとある音楽家が言っています。信仰者にとって沈黙とは、黙想であり、神の前に静まることです。すると、あなたの行く手に立ち込めていた霧の中から歩むべき道がゆっくりと浮かびあがるでしょう。それは神から受け取ることであって、人間のひらめき思いつきによる道ではありません。

1月19日(日) 詩 編 63編1節~12節
 この詩編もユダの荒野に逃げ込み、窮迫したダビデの経験から生まれたものと思われます。水のない荒野、それはそのときのダビデの心の状況とも重なっていました。私たちも人生のいろいろな局面で荒野の経験をします。しかしこの詩編は、そういう荒野にも神はおられることを証します。そして呼べば応えてくださるのです。ほかに何も期待できない人生の荒野こそ、人の魂が神の力と栄光を見出す聖所なのです。聖書では、荒野は試練を意味すると同時に、いつも人が神と出会う場所です。