2014年1月19日日曜日


先週の説教要旨 「 小舟を用意しよう 」 マルコ3章7節~19節 

「 おびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た 」(8節)とある。このようなことが起きるのは、イエス様の時代のことだけではない。今日においても起きる。イエス様がしてくださったことが明らかにされるとき、そこに人々は集まって来る。たくさんの悩み、痛みを覚えている方々が押し寄せて来る。毎日たくさんの人が教会を訪ねて来るわけではない。しかしたった一人の人の悩みを聞いていても、この社会全体が深く傷つき、病んでいることを感じる。そしてその痛みをどこに持っていけば良いのか、迷っているたくさんの人たちの姿が思い浮かぶ。もし、そこに魂の医者であるイエス様の御業が明らかにされるなら、人々は集まって来るのである。ここにはいろいろな地名が出ているが、これは言って見れば「 東から西から北から南から 」という意味で、実に広範囲からイエス様のもとに人々が押し寄せて来たことを示す。

 あまりにもたくさんの人々が押し寄せて来たために、イエス様は群集に押しつぶされそうになった。そこで弟子たちに言われた。「 小舟を用意してほしい 」(9節)と。これはもちろん、群集から逃げてどこかに行ってしまおうと言うのではない。湖に舟を浮かべ、そこから岸に集まる群衆に向かって語ろうとされたのである(4章1節、2節参照)。「 小舟を用意してほしい 」。これが、私たちが今年の活動主題として、イエス様から示されている御言葉である。群集の求めを体全体で受け止めようとしておられるイエス様が、「 あなたたちにも、この群集の悩み、苦しみ、真理を求める切実さが伝わってくるだろう。どうか私と一緒に、この群集の迫りを受け止めてくれ。何も大きな舟を用意してくれとは言わない。あなたたちの持っている舟でいい。あなたたちの持てるものをもって、この私と一緒になって、群集の激しく求めてくる力を受け止めてくれ 」・・・イエス様はそう言われたのである。ここに、私たちの伝道の原点がある。

考えて見ると、イエス様が押しつぶされそうになるというのはおかしなこと。なぜ、神の御子ともあろうお方が押しつぶされそうになっているのか。それは群集、一人一人を愛されたからである。十把ひとからげに扱うのではなく、一人一人を愛されたからである。今日の政治家は、群集(大衆)の力というものをよく知っている。大衆を無視したら、政治家としてやって行けないと心得ている。だがもう一方で大衆を軽く見ていることも事実。選挙の公約違反が横行するのもその現われだろう。しかし主はそのように大衆を扱われない。もし大衆を軽んじているなら、大衆のために押しつぶされそうになることはない。トルンアイゼンというスイスの牧師は伝道において、まとめて人間を扱うなと教える。ひとりひとり、ひざ付き合わせるような言葉を交しながらでないと伝道はできない。教会のひとりひとりが、痛みの中にある人と対話ができるようにならなければ、本当の意味で教会の伝道はではきないと・・・。主が弟子たちにそのことを求められたのだと思う。群集をまとめて扱わず、一人一人を粒だって命を持って生きている者として遇することをお求めになられた。

今日の午後、教会員懇談会を行なう。成瀬教会がこれからの伝道をどのように進めて行くかを、皆で祈り、考えるのだ。具体的な道筋を立てようとしている。私たちが伝道を考える時、帰らなければならない原点がここにあるのである。私たちは群集を十把ひとからげに扱うような伝道はしない。ひとりひとりとの魂の対話を重んじる。その対話へと至るための様々な道筋(小舟)を、自分たちのできる範囲で考え、工夫する。群集に押しつぶされそうになっているイエス様が私たちの助けを求められたのだ。小舟を用意してほしいと・・・・。

イエス様の激しい求めが、12人の弟子を選んだという13節以下の記事につながっている。この12人の名前を覚える必要はない。大切なことは、13番目のところに自分の名前を入れてみるということである。あなたも小舟を用意する一員としてイエス様に選び出された人間なのである。いやいや、そんな大それたことを私はできないと思わないでほしい。ここに挙げられている12人の名前を見ると意外なことだらけではないか。普通、何か一つの目的を持った組織を造ろうとする場合、できるだけチームワークを大切にしたメンバーを選んでいくもの。より優れた力を持つ者たちを選抜していくもの。しかし、イエス様の弟子選びの場合、これで本当にチームワークが取れるのかと、多くの成果を挙げられるのか、と思うようなメンバーである。しかも最後に裏切り者のユダの名前が・・・。そう、伝道の教会は最初から問題を抱えつつ、スタートするのである。問題がなくなったら伝道するというのではない。痛みがあり、問題がある、そういう群れに対してイエス様は一緒に伝道しようと声をかけておられるのだ。イエス様がやがてこの群集に押しつぶされてしまうときが来る。それがあの十字架だ。イエス様は人々の痛みや悩みの根源にある罪という大問題を解決するために、すでにこのとき、十字架を見据えておられた。ユダの選びはそのことを暗示する。その主が私たちに呼びかけておられる。小舟を用意してほしいと。私たちはそれに応えて行こう。(2014年1月12日)