2014年1月12日日曜日


先週の説教要旨 「 安息から始めよう 」 創世記2章1節~9節
 今年の最初の主日礼拝、神の天地創造の御業に思いを向けてみたいと思う。2章1節~4節は天地創造の最後の部分、言わば、締めくくりの部分。神は天地万物を造り、6日目に人間を造られたということは、天地万物は最後に造られる人間のために造られた。つまり、人間の舞台として造られたと言うことができる。人間が生きるためのすべての条件がそこで整えられている。食用として、植物、動物、魚、飲み物としての水が用意された。そして明るさと暖かさをもたらす太陽や月も造られた。しかしそれだけではない。人間にとって直接有用と思われないものも、その創造の業の中に含まれている。直接、人間の役に立つという枠を越えて、まったく人間にとって無用と思われるもの、あるいは無縁と思われる無数のものも、天地創造の業において造られ、人間が生きる舞台に置かれている。「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった 」(1章31節)とあるように、神は人間にとって直接有用ではないと思われるそれらのものもすべてご覧になった上で、「 極めて良い 」と判断された。すなわち、神のもとではすべてが有用なものとして、意味あるものとして存在しているのである。人間にとって意味が分からなくても、創造された神のもとではすべてに意味がある。そのことを信じて2014年、私たちはこの造られた世界を生きる。人間はそういう意味では自分にとって有用なもの、利用できる有用なものだけで生きているのではない。意味の分からないもの、意味の隠されている無数のものがある世界で私たちは生かされている。私たちにとってこの世界は分かりきった世界ではない。だからこそ、可能性が開けていると言えるのだ。人はよく人生不可解だと言って絶望するが、それは意味のない不可解ではない。この世界は不可解なことが一杯ある。しかし意味のない不可解ではないのだ。私たちには今の時点では不可解だけれども、創造者である神のもとでは必ず意味がある。だから私たちはこの人生を投げ出さないし、この世界に期待することができる。この世界の中で望みをもって、可能性を信じて生きることができるのだ。苦難もまたしかりである。苦難というのは、私たちにとって「 ないにこしたことはない 」もの、無縁であったらいいと思うものである。時に、意味の分からないものである。しかし天地万物を造られた方のもとでは、苦難にも意味があり、苦難もまた神の祝福につながるものとしてそこに置かれている。ノアの箱舟の物語で、あの洪水は言わば苦難であった。地上に生きるものをすべて滅ぼしてしまう水。しかし他方、その同じ水がノアにとっては自分が乗っている箱舟を地表から高く浮かび上がらせる働きをした。一方では人を打ちのめす水が、他方ではノアを高く浮き上がらせる水となる。苦難とはそういうものである。苦難が世の一切を呑み込んで行く一方で、信仰者にとってはそれが単なる苦難ではなく、試練であり、それを通じて民を救いへと引き上げて行く働きをする。神の祝福というのは、私たち人間が頭で考えるほど、分かりきった単純なものではないと、つくづく思う。神の祝福は人間には分からない部分がたくさんある。神によって本当に目が開かれた者たちだけが、神のなさるすべてのことは祝福につながっていると知るに至る。
 さて、6日間で創造の業を終えて、神は安息された。神が安息され、安息の日を祝福されたあとに、「 これが天地創造の由来である 」(4節)と言われているように、第7日の安息を含めて天地創造の働きなのである。神は6日間働いて疲れてしまわれたので、それで7日目に休まれた。いわば、7日目はつけ足しのようなものであって、本来はなくてもよかったものというのではない。人間の手は5本の指がある。4本は同じ方向を向いているが親指だけは違う方向を向いている。しかしその親指がなければ、手は手として昨日を失う。それと同じように、この第7の日の安息こそ、まさしく第一のものであり、これをなくしては先のすべてのものがゼロになってしまう。安息こそが神の創造の業の軸なのである。最初の6日間と第7日目には大きな違いがある。それは「 夕があり、そして朝があった 」という記述が第7日にだけないこと。つまり第7の日は終わっていないのであり、神の安息はまだ続いているのだ。なぜ、神の安息はまだ続いているのか。それは造られた人間が神の安息の中で生かされるためだ。神の安息から人が生き始めるためなのだ。このとき、最初の人間アダムはまだいかなる働きもしていない。指一本動かしていない。彼が最初にやるべきことは、まずこの神の安息に招き入れていただくことであり、神の息吹を吹き入れられて生きるようになることであった(7節)。土の塵が象徴するように、人間はもろく、弱い。しかしそのような人間の生が神によって肯定されている。「 あなたは生きてよい、生きる意味がある 」と言ってくださるのである。そこから人はすべてのことを始めるべく、創造されたのだ。しかし現代はこれと全く反対の方向に加速している。安息ではなく、何かの業をするということが軸となり、自分の存在価値を保証することになっている。自分が業をやめるというのは自分が不必要な人間になってしまうことを意味してしまうのだ。その不安を解消するために、人は働きに働きを重ね、結局、行き詰まる。2014年、神のもとにある安息をこそ軸とし、私たちはそこから始めよう。
                           (2013年1月5日)