2014年1月5日日曜日



先週の説教要旨 「 アブラハムに始まり 」 使徒言行録6章8節~7章16節 
   今朝からステファノの物語を読み始める。かなり長い物語なので、比較的大きな区切りで読む。
  ステファノの名が初めて登場するのは6章5節。教会の食事の分配のことで混乱が起き、その解決策として食卓の世話をする奉仕者7人を選んだ。その7人の最初に彼の名が記されている。興味のあることに、この7人は皆ギリシャ語を話すユダヤ人たちであったと考えられている。使徒たちは食事の配給をする奉仕者7人を選んで問題の解決に当たらせ、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念した。だが、食卓のことを委ねられた人たちは説教をしてはいけない、というわけではなかった。彼らは教会の中で交わりを整えるために働くと同時に、民衆の間で伝道もしていた。もちろん説教もした。中でも「 ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた 」。そしてその説教を聴きとがめた人たちがいた。それが「 解放された奴隷の会堂 」に属する人々である。
  彼らは外地で育ったユダヤ人で、奴隷状態から解放されて祖国に戻って来た人たちであり、ヘブライ語よりもギリシャ語を話す方が得意であった。彼らは神殿で礼拝する一方、自分たちのグループの交わりの場として会堂を有していた。この人たちは外地で生活をしたユダヤ人であるだけに、ユダヤ人の伝統というものについては極めて、熱心、あるいは固執するほどにそれを厳守しようとした。自分たちもユダヤ人であることを周囲に認めてもらおうと必死だったのである。ステファノも同じように外地出身なので、もしかすると以前から彼らと親しかったのかも知れない。ところがステファノがキリスト者になると、自分たちと考えが違うようになった。その違った考えを説教の中で聴きとがめたのであろう。ステファノと議論になった。
  「 あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた 」(11節)、「 あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変える 」(14節)とあるように、イエスの影響下にあるステファノは、我々がしている神殿礼拝に対して批判的であり、また我々が大切にしているモーセが伝えた掟、その掟と結びついた生活の慣習を変えてしまおうとしている、そういう議論をしたようだ。
  本来、同志であるはずのステファノが反対のことを言い出した。苛立ち、憤る。しかし議論をしても歯が立たない。そこで偽証者を立てて訴え出て、最高法院によって裁かせようとした。イエス様の裁判と同じように・・・。
  大祭司の前に引き出されたステファノは問われるままに長い話を始める。ここにはアブラハムから始まり、旧約聖書が伝える物語がステファノの口によって語り直される。しかもキリスト者の視点から旧約聖書の物語をもう一回語り直し始めるのである。
  神はアブラハムにあなたを祝福するとの約束を与えられた。アブラハムの時代、彼には子どもがおらず、その約束はかなわぬと思われた。人間的に見たら可能性ゼロであったが、神は彼に子を与えられた。ヤコブの時代、彼らは約束の地を離れてエジプトへ下ることになる。約束の地を離れることは神の約束の実現から遠ざかることのように思われたが、その約束は保持されて行く。そのように、神の約束は困難な状況を貫いて進展して行き、その約束はイエス・キリストにおいて決定的に成就した。イエス・キリストこそ、アブラハムに与えられた約束の成就。それがステファノの理解。彼はその視点から旧約聖書の物語を受け止め直して語る。
  この「 キリストの出来事から過去の歴史を見つめ直す 」ということは、私たちに大きな示唆を与える。私たちに置き換えて言うなら、キリストの出来事から自分の過去の歴史を解釈し直し、それを受け止め直すということであろう。キリストの出来事という視点から「 わが人生 」を見るのだ。
  私たちの人生は、どこからそれを見るか、その見方によって非常に違ってくる。私たちの人生には成功と思える部分と失敗と思える部分とがある。この一年間を振り返っても、良かったと思える点、悪かったと思える点、そういうものが多々あると思う。信仰というのは、自分の人生の成功と思える部分から人生を見るわけではないし、失敗と思われるところから見るのでもない。いつでも、イエス・キリストの出来事、十字架と復活の出来事から自分の人生を見るのだ。十字架は、あなたの人生がいかなるマイナスの要素で固められていたとしても、その人生に赦しを与え、贖い、意味あるものへと変える。そうするためにキリストの十字架の犠牲が払われたのだ。
  この一年、あなたの人生の収支決算書、バランスシートはどうなっているだろうか。マイナスの項目が多いだろうか。しかしあなたの人生は些細な失敗でもって、すべてマイナスに転じるようなことはない。それどころか、たとえ容易に取り返せない罪や失敗によってさえも、マイナスになることはない。私たちのバランスシートにはイエス・キリストの十字架と復活の恵みが膨大なプラスの数字として記入されているからだ。それはまことに膨大な数字であって、正直なところ、私たちにはそれがどれほどの数字になっているか、自分でも十分には分かっていないほどなのだ。それは無限のプラス。どんなマイナスの経験も、この膨大なプラスの数字をマイナスに転じさせることはできない。私たちは自分が知り、理解しているよりもはるかに大きく救われている。それがキリストの十字架と復活を通して見えてくる私たちの人生なのである。     (2013年12月29日)