2013年12月29日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月30日~1月5日

12月30日(月) 詩 編 43編1節~5節
   詩編42編と43編は、「 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め 」という言葉が共通して見られます(6節、12節、5節)。そのことから、この二つの詩はもともとひとつの詩であったと考えられています。42編は、自己と対話する詩人の姿が描かれていました。自己と対話するときをあなたは持っていますか。なぜうなだれるのか、何を怒っているのかと。自己との対話はとても有益です。冷静になって自分を見つめることができます。しかしそれ以上に有益なのは、そこに神との対話が加わることです。43編はすべてが神との対話になっていますね。そのような対話を通して私たちの人格はより深められていくのです。

12月31日(火) 詩 編 44編1節~27節
   詩編44編は、国民的苦難の中で、神が彼らの先祖をどのように扱われたかを回顧し、その神がなぜ今、神の民を敵のあざけりの中に置いておられるのかという抗議にも似た嘆願をしている詩です。「 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも、自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく、あなたの右の御手、あなたの御腕、あなたの御顔の光によるものでした 」(4節)。人生に本当に勝利をもたらすものは何でしょうか。神の光だけが罪の暗黒を吹き払い、神の愛だけが堅い心を溶かし、神の摂理だけが人生の不可解と言う鉄門を開くのです。人の力によるのではありません。ローマ8章28節、31節、37節のパウロの言葉も参照しましょう。

1月1日(水) 詩 編 45編1節~18節
   この詩編は、王宮の詩人が王の結婚式を歌ったものです。「 心に湧き出る美しい言葉、わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として 」(2節)。私の語る歌、私の詠む歌は、ひたすら我が王のためであることを光栄とする詩人の喜びがあふれている詩ですね。これは元旦に読むには、まことにふさわしい詩編だと思います。あなたは今年、どんな歌を歌いますか。どんな歌を詠みますか・・・。何事でも、どんな事でも、これは「 我が王なるイエスのためである 」との光栄に生きることができますように。さあ、2014年の始まりです。

1月2日(木) 詩 編 46編1節~12節
   この詩編は、ルターが「 神はわがやぐら 」という賛美歌を作るもとになった大変有名な詩編です。「 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる 」(2節)は、インマヌエルの信仰を証しするものですね。神は、私たちが苦難のとき、その苦難のさなかに共にいてくださり、共に苦しみを担ってくださり、その苦難を一緒に歩いて助け出してくださるというのです。いつか、私たちを助けに来てくださるという傍観者ではないのです。必ずそこにいまして助けてくださるのです。その助け方は、私たちが思い描いている方法とは違うかも知れません。いや、多くの場合、違うでしょう。でも、必ず、共にいて助けてくださるのです。そのために大切なことは、「 力を捨てよ、知れ、わたしは神 」(11節)とあるように、自分の小さな力にしがみつかないで、それを捨てることです。
  
1月3日(金) 詩 編 47編1節~10節
   この詩編には、神の王たることが歌われています。この詩編(2節)から坂本九さんの歌「 しあわせなら手をたたこう 」が作詞されたことをご存知でしたか(作詞は木村利人さん)。態度で示したくなる信仰の喜びがあふれています。5節の「 我らのために嗣業を選び、愛するヤコブの誇りとされた 」という言葉に目を留めます。あなたは自分の選びによって生きようとしていますか、それとも神の選びによって生きようとしていますか。神は選ばれます。私たちのために、私たちが進むべき道を。それはあなたが選ぶよりも、ずっとよりよい道なのです。主よ、選んでください、私のために・・・という謙遜と信頼を、ことあるごとに喚起しましょう。

1月4日(土) 詩 編 48編1節~15節

詩編46編から48編までは、内容が類似していて一組をなしています。48編はイスラエルの都シオン(エルサレム)との関係で、神をほめたたえます。シオンは、そこに住む者に祝福を与え、そこを蹂躙しようとする者の野望を打ち砕く都、そこは神がご自身のために定められた都だからです。「 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ 」(14節)とは、私たちのことに言い換えるなら、成瀬教会の礼拝堂に入って見よ、でしょうか。そこには日の光を浴びた十字架が掲げられています。「 神よ、神殿にあってわたしたちは、あなたの慈しみを思い描く 」(10節)。

1月5日(日) 詩 編 49編1節~21節
 この詩編は、知恵の詩に属するものと言われ、信仰の恵みを証しする、どちらかというと黙想に近いものです。「 人間は栄華のうちに悟りを得ることはない 」(21節)と詩人は言います。とすれば、世の多くの人は悟りを得たいと思いつつ、それとは反対に悟りが得られない道に進んでいることになるでしょうか。心の深い部分では、本当は栄華を求めているからです。成功、繁栄、自負、誇り。高いところに立てば、何もかもが見渡せる。人が自分よりも小さく見えます。そして、なるほど、世の中とはこういうものかと達観した気分になります。しかし聖書は言います。そのとき、あなたは、本当は何も見えてはいないのだと・・・。目がかすんでいるのです。砕かれて、低くされて、はじめて人は真実を見るのです。栄華を誇ったソロモンを生かしておられた方を見るようになるのです。