2013年12月23日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月23日~12月29日

12月23日(月) 詩 編 36編1節~13節
  この詩編は、前半が悪しき者の生活について黙想し、後半は神への賛美となっています。「 神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる 」(2節)。私の心の奥に聞こえる声はいかなるものか、問われる思いがします。詩人は、「 神に逆らう者に罪が語りかけるのが聞こえる 」と言い、滅びを招く自己の内面の課題を見据え、心の奥に届くものが圧倒的に賛美であるようにしたいと願っています。「 あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている 」(6節)という賛美であるように。神の慈しみは天に満ちている・・・。あなたには時に、神の慈しみが分からなくなる時がありますかそれは神の慈しみが圧倒的に大きいために、受け止めかねてしまうだけであって、神の配慮はとても深いと信じてよいのです。

12月24日(火) 詩 編 37編1節~40節
  アルファベット詩編のひとつです。ヘブライ語のアルファベットが各節の文頭にきれいに並んでいます。技巧的であることを求めたせいか、思想的な展開は見られませんが、「 悪事を謀る者のことでいら立つな 」(1節)と「 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ 」(5節)、「 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる 」(23節)は思想的なつながりをもって読めそうですね。他者のことでいら立つとき、自分で決着をつけてしまいたくなるでしょう。そうではなく、すべてを御手のうちに治めておられる主に委ねる。主は必ず御旨にかなう道を備えてくださいます。そうです、試練を逃れる道さえもね(Ⅰコリント10章13節)。

12月25日(水) 詩 編 38編1節~23節
  この詩編は悔い改めの7つの詩編と呼ばれるもののひとつで、その名の通り、罪を悔い改めている詩編です。詩人は自分の罪を神に示されて、うめいています。神に罪を指摘された魂は不安で揺れ動くものです。それを自分の手で始末してしまおうか、それとも神にすべてをさらけ出して告白し、神に始末をつけてもらおうかと、振り子のように二つの間で揺れ動きます。隠しておいて、そのまま葬り去ってしまうことは楽ですが、罪の解決にはなりません。主を裏切ったユダのように自分で始末をつけようとするのと、ペトロのように主に委ねるとでは、全く違う結果を生みます。「 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」(Ⅱコリ7章10節)。

12月19日(木) 詩 編 39編1節~14節
  詩人は悪しき者を前にして、自分の道を清く保とう、言葉による罪を犯すまいと決断しました。しかし人間としてのむなしさ、はかなさとしても、神からの懲らしめを受ける身としても、悪しき者と自分とにほとんど差がないと思うに至ります。そして主を唯一の望みとする信仰によりどころを求めます。主の御もとに身を寄せるもの、先祖と同じ宿り人と・・・。よりどころのないことほど、人を追い詰めることはありません。しかし私たちには決してなくならないよりどころがあります。

12月20日(金) 詩 編 40編1節~18節
  この詩編は、感謝の歌と嘆きの部分と、きれいに2つに分かれています。そのために、もともと別々の詩編がひとつに合わされたものと考える人もいます。「 わたしは自分の罪に捕えられ、何も見えなくなりました 」(13節)。罪にとらわれている心というのは、見えているようでいて、実は冷静さを失っており、何も見えてはいないのです。特に、神の真実の御手を見ることができなくなっています。怒り、憎しみ、不平、不満にとらわれているとき、今、自分は真実が見えてはいないのだと、自重することはとても大切なことです。そして「 主よ、走り寄ってわたしを救ってください 」(14節)と祈ることも・・・。走りよってくださる神、放蕩息子の父親の姿を思い起こさせる言葉です。

12月21日(土) 詩 編 41編1節~14節

詩人は重い病に苦しみ、神に祈りを求めて祈っています。詩人の周りには悪意に満ちた敵の姿もあるようです。もう二度と起き上がれないかも知れないという重病のとこに伏して、詩人は「 逆転した人生 」という悲哀を体験しました。詩人に臨んだ人生の逆転は深刻なものでした。しかしその悲哀の体験中で、「 主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください 」(5節)という祈りを捧げていますね。人生が逆転してしまった原因を自分の罪にあったと詩人は受け止めたようです。主の憐れみにすがらなくては生きられないという尊い自覚が深まっています。人生で経験する逆転のような悲哀は、時として、私たちが気づいていなかった、あるいは頭では分かっていても、骨身にしみて理解してはいなかった大切なことに気づかせ、分からせてくれます。マイナスの中にプラスが隠れていますよ。

12月22日(日) 詩 編 42編1節~12節
 詩編42編は、神への飢え渇きを歌います。鹿が谷川の水を慕い求めています。鹿にとって水は命の源。私たちにとって、神は命の源、神から離れた者は花瓶にさした一輪の花のよう。野に生えた草花とは違い、すぐに枯れてしまいます。詩人は今、自分が置かれている現状に神の御手を見出すことができず、苦しみ、飢え渇いています。そんな中、詩人は良き過去を振り返り、主を思い起こす(5節)ことによって、厳しい現実の中にも神の御手があることを確認して行くのです。「 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13章8節)。だから確かな「 恵みの過去 」があるならば、今も恵みの中にあるのです。