2013年12月29日日曜日


先週の説教要旨 「 二つの決心の間で 」 マタイ1章18節~25節
  私たちの人生には、運・・・そういう言葉を使うのが適当であるかどうかはさておき、そういう言葉を使ってしか言い表せないような、人生の不条理、不可解、なぜ、自分の身にこういうことが・・・と、いくら考えても分からないことがある。しかも決定的な影響をもたらすものとして、私たちの人生のただ中に存在している。ヨセフは婚約中のマリアが自分の子どもではない、聖霊によって身ごもるという、何がなんだかよく分からない、運命的な問題にぶつかった。これは一見すると、ヨセフだけが経験した極めて特殊な出来事のように思われる。しかし考えてみれば、私たちも皆、程度の差こそあれ、同じように何がなんだか分からない運命的な問題に振り回されて生きているのではないだろうか・・・。健康の問題、家庭の問題、職業の問題、能力の問題、あるいは自分の性格の問題、お金の問題など、「 どうして、どうしてなの 」と、問うても答えの出せない運命的なことがたくさんある。そしてどうあがいても解決することもできず、さりとて投げ出すこともできず、その与えられた限界の中で生きている。宿命と言ったらよいのか、運命と言ったらよいのか、いずれにしても人間の手で片付けることを許さない、神の領域に属すると言うべきものに私たちは限界づけられ、支配されている。これは何も悲観的なことを言っているのではなく、ありのままに見た人生の事実を言っているのである。神は、私たちに「 限界 」というものを置かれる方である。神は、ヨセフに耐え難い不運を与え、つまり限界を、避けてはならないものとして与え、まさにそこで共におられるご自身であることを示されたのである。神は限界を置く神であり、そしてその限界において、出会ってくださる神なのである。もし、そういう限界がないならば、人は傲慢になり、神を見失い、神と出会うということもできないであろう。

ヨセフに与えられた限界を聖書はこう記す。婚約者のマリアが自分の知らないところで身ごもってしまった。ヨセフはマリアと離縁する決心をする。当時のユダヤでは婚約は結婚とほぼ同じであり、こういうケースでは神の律法に照らせば、マリアは姦淫罪で石打の死刑に処せられる。ヨセフは律法に忠実であろうとする正しい人であったが、マリアへの愛もあって悩んだ。そればかりか、マリアは聖霊によって身ごもったと言っている。もしそれが本当なら、マリアを罪に定めることはできない。だが、それを説明したところで周りの人たちは納得するだろうか・・・自分だって、自分みたいな者の家庭に救い主となる子が生まれるとは、にわかに信じがたいのだ。結局、これを「 表ざたにする 」、つまり裁判の場に持ち出すことなく、ひそかに離縁しようとヨセフは決心した。ところがヨセフは決心通りに離縁したかと言うと、すぐに決心を実行に移すのではなく、なおもそのことを考え続けるのである。20節の「 このように考えていると 」は、決心を実行に移せずに、再び思い巡らすヨセフの姿を現している言葉である。このヨセフの姿は、人間の手では片付けられないこと、いや、片付けてはいけないものに直面していることを思って、恐れおののきつつ、思い巡らしている人の姿なのである。人間には、これは神の領域に属する問題であって、自分の知恵で簡単に片付けてしまってはならないもの、神によって解決されることを求めなければならない、そういう神に委ねるべき問題があるのである。ヨセフはそういう問題を前にして、恐れおののき、思い巡らしている。そしてそういうヨセフに、神は夢を通してその片付け方をお示しになる。マリアを妻として迎え入れる、それが神の示された解決法。ヨセフはそれを受け入れ、離縁という最初の決心とは正反対の決心をするのである。二つの決心の間でヨセフの心は悩み、痛んだ。しかしこのヨセフの戦いなくして、クリスマスはなかった。その悩みの中で聖書全体の中心とも言うべき証言、「 インマヌエル、神は我々と共におられる 」という奥義が語られるのである。ヨセフは人生の不可解な問題を前にして、神の御心を切に知り、求め、それによって生きて行こうとする、迷い、疑い、問い続けることをやめない人であった。クリスマスはすべての人に与えられた。だが誰にでも分かるというものではない。人生の不条理に困惑し、迷い、求め、問い続ける人、問題を持て余し、てこずり、悩んでいる人、自分の手では片付かないものを無理に片付けず、その前に座って、思い巡らし続ける人のものなのである。ところで、神の示された道がなぜ、問題の解決となり得るのか。むしろ、問題を抱え込む苦難へと足を踏み入れることになるのではないか・・・。だが聖書は言う。マリアを受け入れるとき、受け入れたそのマリアが罪からの救い主を生み出す。つまり、問題を受け入れることが救いになると。なぜ、問題を受け入れると救いになるのか。過酷な運命が幸せな運命に変わるとでも言うのか、そんなことはない。「 インマヌエル、神が我々と共におられる 」ということが起こるからなのである。人にはたくさんの苦しみがある。たが信仰を持ったら、その苦しみ「 が 」なくなると神は約束されない。そうではなく、苦しみ「 で 」なくなるのだと言う。たったの一文字違いだが、この違いは大きい。つらい状況であることには変わりはない。だがインマヌエルによって、それが苦しみ「 で 」なくなる。神は人間の万策尽きた限界状況で私たちと共にいてくださる方なのだから。(2013年12月22日)