2013年12月23日月曜日


先週の説教要旨 「 私たちの姿勢 」 使徒言行録6章1節~7節 
 誰の人生においても、危機的な状況は訪れる。突然、家族の一人が病気になり、介護の必要が生じる。仕事を失って経済的な問題を抱える。自分の健康を失ったり、人間関係のトラブルが起きてしまう。そういう危機状況に直面したとき、私たちはどのような対応をすることで、危機を乗り越えていこうとするだろうか。使徒言行録6章には教会が深刻な危機状況に直面し、それを乗り越えて行く姿が証しされている。弟子たちの危機状況への対応、それは「 神の言葉をないがしろにしない 」ということであった。「 ないがしろにしない 」と訳された言葉は、後に残しておかない、後回しにしないという意味の言葉である。神の言葉を後回しにしない、それが弟子たちの対応だった。私たちは危機に直面したとき、必死になってその解決を図ろうと考え、行動する。そのとき、あなたの中で神の言葉はどのような位置にあるだろうか。解決のための中心に置かれているだろうか。それとも、神の言葉は後回しにされてしまうだろうか。先日の祈祷会に久し振りに出席された方がいた。自分の抱えている課題を信仰の仲間のところに持ってきて、御言葉と祈りによって解決を見出そうとされたのであった。

 弟子たちに訪れた危機は、こういうものであった。「 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである 」(1節)。弟子の数が増えてきたら、教会の交わりがうまくいかなくなった。ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に問題が生じたのである。最初の教会は、持ち物を互いに持ち寄り、必要な人たちにそれを分かち与えていた。ところがその日々の配給で、多数派のヘブライ語を話すユダヤ人が自分たちの仲間を優遇してしまうようなことが起きた。ギリシア語を話すユダヤ人、しかも最も社会的に不遇であったやもめ、一番弱いところに置かれ、一番文句を言いにくい人たちが不遇な思いをさせられたというのである。生まれたばかりの教会が、初めて経験する分裂の危機である。下手に対応すると、話がこじれ、教会が分裂してしまう。その危機に際して、使徒たちが取った対応は「 神の言葉を後回しにしない 」という対応であった。もちろん、神の言葉を重んじるというのは、他のことはいい加減に扱ってもいいということでない。使徒たちは日々の配給に関しても、きちんとした手当てをする。「 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう 」(3節)。食事の世話というのは、教会にとって大切な愛の業。しかも争いごとを裁くのだから、いい加減にはできない。そこで使徒たちは、霊と知恵に満ちた評判のよい人7人を選び、その人たちに食事のお世話をお願いしようと提案した。5節に選ばれた7人の名前が記されている。ステファノ、フィリポ・・・7人は皆、ギリシア的な名前であることから少数派の中から7人を選んだのだろう。使徒言行録を読み進めて行くと、このステフアノ、フィリポは実に大きな働きをしていることが分かる。ステファノは教会で最初の殉教者になる。つまり、使徒たちに変わってこのことに対処するよう選ばれた人たちは、使徒たちにひけをとらない信仰者だったのだ。使徒たちは決していい加減に事を扱ったのではなかった。重大な問題だと認識していた。しかしそれ以上に、神の言葉が重んじられなくてはならないという姿勢を固持したのである。使徒たちは選ばれた7人に手を置いて祈った。按手と呼ばれる行為だ。ここにも、使徒たちが神の言葉を重んじて姿勢がよく現れている。候補者選びの条件提示、仕事の分散の動機、按手のことなど、これらはみな旧約聖書出エジプト記に記されていることであり、神の言葉から導き出されているものである。神の言葉を後回しにしない信仰が使徒たちわして旧約聖書に問いかけさせたのである。

ここに祈りと御言葉に仕える働きと並んで、食卓に仕えることをもっぱらにする務めが立てられた。執事と言われる務めの始まりである。教会は、まず使徒たちに神の言葉と祈りを徹底して重んじることを優先させ、それから必要とされる奉仕を担う他の者を立てることによって、教会の体制を整えて行った。そうやって危機を乗り越えた。その結果、「 こうして神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢、この信仰に入った 」(7節)。神の言葉を何よりも重んじるという対応が、さらに神の言葉が広がるという結果につながったのだ。これは教会が忘れてはならない姿勢であるし、私たちひとりひとりの生活においても、重んじられるべき姿勢である。私たちは様々な危機に直面する。そのとき、まず、神の言葉と祈りを重んじることの中で、解決を求めていくならば、あなたの生活の領域、隅々にまで神の言葉の力はますます広がって行くであろう。しかしもし、私たちが神の言葉を後回しにした解決を模索するのであれば、それはいなくなった羊のように、神のもとから迷い出た状況になってしまうのである。そのとき、イエス様は99匹の羊を野原に「 残して 」でも、あなたのことを必死に捜し求められるであろう。「 ないがしろにする 」と訳された言葉は、野原に「 残して 」という言葉と、原文ギリシア語では同じ言葉なのだから。(2013年12月15日)